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青森地方裁判所 昭和42年(た)1号 決定 1973年3月30日

請求人

甲野四郎

右弁護人弁護士

津田騰三

外七名

右請求人に対する強姦致死、殺人被告事件(青森地方裁判所昭和二七年(わ)第四九号)について、

同年一二月五日同裁判所が言渡した有罪(認定罪名・強姦致死)の確定判決(同二八年八月二二日仙台高等裁判所が控訴棄却の判決をなし、

同年九月六日確定)に対し、請求人から再審の請求があつたので、当裁判所は、請求人本人、検察官の各意見をきいたうえ、次のとおり決定する。

主文

本件再審請求を棄却する。

理由

理由目次

第一、本件再審請求の趣旨および理由の要旨

第二、当裁判所の判断

一、(請求人に対する有罪判決の確定)

二、(証拠の新規性についての判断)

三、(証拠の明白性についての検討の方針)

四、本件再審請求に至るまでの経緯

五、新規証拠の位置づけ

六、遺留精液斑の血液型判定について

七、共同墓地からの犯人目撃の能否について

八、乙野春夫(仮名)および請求人の自白の信憑性について

九、結論

第一本件再審請求の趣旨および理由の要旨

本件再審請求の趣旨および理由の要旨は、弁護人津田騰三ほか二名作成の再審請求書、同弁護人ほか二名作成の準備書面と題する書面(三通)および同弁護人ほか三名作成の意見書と題する書面(二通)に記載するとおりであるが、その要旨は、次のとおりである。

請求人は、昭和二七年二月二五日午後、青森県東津軽郡高田村大字小舘字桜苅(現在、青森市大字小舘字桜苅)一六四番地に居住する川村すな(明治二八年二月二一日生れ)方において、同女が何者かに絞殺された事件(以下この事件を単に「川村すな絞殺事件」という。)について、同年三月二三日青森地方裁判所に起訴され(同裁判所同年(わ)第四九号強姦致死、殺人被告事件)、同年一二月五日頭書の判決により懲役一〇年に処せられ、請求人の控訴が棄却されて右判決が確定した同二八年九月六日から、同三三年二月一八日仮釈放で秋田刑務所を出所するまでの間服役した。ところが、東京地方検察庁は、同四二年二月二三日乙野春夫(昭和八年三月三日生)を、川村すな絞殺事件の真犯人として、強盗殺人、強盗強姦未遂罪で東京地方裁判所に起訴し(同裁判所同四二年合わ第五七号事件)、この事件は、同地裁刑事第九部で審理され、同四三年七月二日乙野春夫に対し無罪の判決を見、その控訴審である東京高等裁判所において審理中(同裁判所同年(う)第一七九二号)のところ、同四五年五月五日被告人である乙野春夫が自殺したことにより、この事件は、公訴棄却の決定をもつて落着した。右両事件は、罪名こそ異なるものの、被害者が同一であり、単独犯行を内容とするものであるから、請求人と乙野の両名がともに犯人であるということはあり得ないところであり、現に、乙野に対する被告事件の審理およびこれに先立つ被疑事件段階における捜査において、同人こそ前記川村すな絞殺事件の真犯人であり、請求人が無実であることを証明する次の各証拠が発見された。すなわち、

1、東京地方検察庁検察官山崎恒幸作成の昭和四二年二月二三日付乙野春夫に対する起訴状

右起訴状は、東京地方検察庁検察官が乙野春夫を川村すな絞殺事件の真犯人と判断し、東京地方裁判所に起訴し、同人を強盗殺人、強盗強姦未遂の罪名のもとに訴追することを内容とするものである。これにより請求人の無実であることが証明される。

2(一)、乙野春夫の司法警察員に対する昭和四一年四月八日付、同年五月一四日付各供述調書

(二)、同人作成の同年五月二四日付供述書

(三)、同人の検察官に対する同年五月三〇日付、同月三一日付(二通)、同年一一月一七日付各供述調書

(四)、東京地方裁判所裁判官の同人に対する同四二年二月二二日付勾留質問調書

右(一)ないし(四)の各証拠は、乙野春夫が、司法警察員、検察官および勾留質問の裁判官に対し、川村すなに対する強盗殺人、強盗強姦未遂の犯行を自白したことを内容とするものである。そして右自白内容は十分に信用できるものであるから、これにより、請求人の無実が証明される。

3(一)、鑑定人赤石英作成の昭和四一年一二月一六日付鑑定書

(二)、同上野正吉作成の昭和四二年二月三日付鑑定書

右各鑑定書は、被害者川村すなの屍体に認められた顔面、頸部、胸部の各創傷の成傷原因ないし成傷用器および同被害者の身体や着衣に付着していた犯人の精液からみた姦淫の証跡について、請求人の自白内容(原審で取調べがなされた請求人の捜査官に対する各供述調書内容)と乙野春夫の自白内容とを比較すると、乙野春夫の自白する加害手段ないし姦淫方法が請求人の自白するそれらよりもより一層右各創傷の成傷原因および姦淫の証跡のいずれとも適合することを内容とするものである。したがつてこれにより右請求人の自白が虚偽のものであり、請求人の無実が証明される。

4(一)、鑑定人上野正吉作成の昭和四三年一〇月二二日付鑑定書

(二)、同山沢吉平作成の同四三年一〇月二五日付鑑定書

右各鑑定書は、請求人の血液型は、A型であるが非分泌型に属し、その精液あるいは唾液中に、ABO式の血液型の判定を可能ならしめる物質(「型物質」あるいは「抗原」と呼ばれる物質)が含まれているけれども、これが微量であることを内容とするものである。これによつて請求人に対する前記事件の控訴審で取調べがなされた鑑定人赤石英作成の同二八年七月二七日受付の鑑定書にいう「請求人の唾液はA型分泌型と認められる」との鑑定結果が誤りであることが明らかとなつた。ところで、このような血液以外の体液にも含有される型物質が微量であるとき、この微量な型物質から血液型を判定することは、最近、血液型検査術式の著しい発達によつて可能となつたものであり、本件犯行当時の術式によつては不可能であつた。しかるに、原審で取調べがなされた鑑定人赤石英作成の同二七年三月一一日付、同月二〇日付各鑑定書により、被害者の下腹部、外陰部および着用していた腰巻三か所にそれぞれ付着していた犯人の精液斑から、犯人の血液型は、「A型分泌型」であることが証明されていたのである。したがつて、右遺留精液型は、A型の非分泌型である請求人のものでなかつたということができる。他方、乙野春夫の血液型はA型分泌型であり(鑑定人菊地哲作成の同四一年五月一七日付鑑定書)、右被害現場に遺留された精液の特性と一致するから、この点からも乙野春夫の前記自白の真実性が認められる反面、請求人の無実であることが証明される。

5  東京高等裁判所(昭和四三年(う)第一七九二号事件)の検証調書原審が前記川村すな絞殺事件の犯人を請求人であるとし、その犯行時刻を午後七時ころと認定するに当り、原判決で採用された証人柴田武良、同柴田フミ、同柴田公人、同柴田厳、同柴田洋らの各証人尋問調書およびこれらの各証人の指示による共同墓地付近における検証調書をみると、右武良、フミ、公人、厳らが、右犯行時刻ころ、右墓地内で、近くの道路を犯行現場の方向から歩いてくる請求人を目撃したこと、とくに、当時わずか一一才であつた右厳において、その通行者が請求人である旨断定したことおよび当時右場所ではこれら視覚による確認が可能な明るさであつたことがその内容となつている。しかしながら、右東京高等裁判所の検証調書は、青森地方気象台作成の昭和四二年四月二八日付鑑定書と相まつて、本件発生日と近似した天象および気象下の午後七時ころの右共同墓地における明るさでは、人物の識別が不可能であることの実験結果を内容とするものである。これによつて、右各証人の供述が誤解であることが証明されたのである。しかも請求人の妻である甲野花枝(仮名)およびその母親である乙野春子(仮名)は、すでに本件の捜査段階において、請求人が右犯行の時刻には自宅に居た事実を明らかにしている(右両名の司法警察員に対する各供述調書(いずれも昭和二七年三月二日付))のであつて、右検証調書にこの点を併せれば、請求人が、原判決で認定の犯行時刻前後に現場に立寄つた形跡が全くないことになり、この点からも請求人の無実であることが証明される。

以上のとおり、請求人が受けた頭書の確定判決につき、請求人に対し無罪を言渡すべき明らかな証拠を新たに発見したものであるから、刑事訴訟法四三五条六号により、右確定判決に対し、請求人の利益のために本件再審請求に及ぶ。

というのである。

第二当裁判所の判断

一本件記録ならびに取寄にかかる請求人を被告人とする青森地方裁判所昭和二七年(わ)第四九号強姦致死、殺人被告事件および仙台高等裁判所昭和二八年(う)第一号同控訴事件の各記録によると、請求人は、同二七年一二月五日青森地方裁判所で強姦致死罪により、懲役一〇年に処せられ、同二八年九月六日右判決は確定したものであることが認められる。

二つぎに、本件記録ならびに取寄にかかる乙野春夫を被告人とする東京地方裁判所昭和四二年合わ第五七号強盗殺人、強盗強姦未遂被告事件および東京高等裁判所昭和四三年(う)第一七九二号同控訴事件の各記録によると、請求人の弁護人が本件再審請求にあたり、新規かつ明白の証拠として掲げる前記の各証拠が存在するところ、これらがいずれも請求人に対する前記判決の確定後に発生し、いずれもほぼ右弁護人の主張する内容(内容についての主張の範囲だけに限定し、右の各証拠の証明力についての主張部分を除外する。なお、後に右の各証拠の内容の詳細を判示する。)のものであることが認められるから、右の各証拠は、いずれも刑訴法四三五条六号にいう「あらたに発見」された証拠ということができる。もつとも、右の各証拠のうち、請求人の血液および唾液から、その血液型を判定する鑑定郎分(前記第一の3の(一)および(二)の各鑑定書中)については、すでに請求人に対する前記被告事件の審理の際、これと同一事項につき他の鑑定人による鑑定書(血液からの鑑定につき鑑定人赤石英作成の昭和二七年三月五日付鑑定書(別紙三)、唾液からの鑑定につき同鑑定人作成の同二八年七月二七日受付の鑑定書(別紙六))が取調べられている。しかしながら、請求人の血液からその血液型を判定する点については、右赤石鑑定では、単に抗A、抗Bおよび抗M、抗Nの各血清による血球の凝集反応を検査して、請求人の血液型がA型、N型と判定されているだけであるのに対し、前記第一の3の(一)(鑑定人上野正吉作成)および(二)(同山沢吉平作成)の各鑑定書における鑑定においては、右赤石鑑定における検査を行なつたほか、後記のとおり本件で重要な意味を有する血液型物質の分泌の有無およびその程度を明らかにするため、右上野鑑定においては、Ss式血液型の、右山沢鑑定においては、Lewis式血液型の各検査を行ない、いずれも請求人の血液型がA型、N型とするほかあらたに非分泌型と判定されているものである。また、請求人の唾液からその血液型を判定する点については、右赤石鑑定では、単に抗A、抗B凝集素の凝集阻止試験により、請求人の唾液がA型・分泌型と判定されているのに対し、右上野鑑定では、抗Aと併せて抗H(抗OS唾液免疫ニワトリ血清)凝集素の凝集阻止試験を行うとともに、抗T(アラビヤゴム免疫血清)沈降反応を検査し、他方、右山沢鑑定では、抗A、抗B、抗O凝集素の凝集阻止試験を行うとともに、各種植物凝集素および抗aLe凝集素の凝集阻止試験をし、いずれも請求人の唾液がA型とするほか右赤石鑑定とは逆に非分泌型と判定されているものである。したがつて、第一の3の(一)および(二)の各鑑定書は、同一事項についての前記既存鑑定書にもかかわらず、新規性の要件を満しているものということができる。

三1 したがつて、本件においては、右の各新規証拠が、請求人に対し刑訴法四三五条六号にいう「無罪を言い渡」すべき「明らから証拠」と評価できるかどうかの点についての検討に集約されるところ、以下この検討を、右の各新規証拠につきその信憑性を当裁判所が必要と認めて取調べた全ての証拠資料との関連のもとに吟味(ただし右の各証拠のうち起訴状(第一の1)は、後記のとおり、かかる吟味の余地のないものである)したうえ、右の各新規証拠の個々のものをもつてするだけにとどまらず、これらを総合し、さらに請求人に対する前記有罪の確定判決の事実認定の場に供された各証拠をも併せ考え、果して右有罪の確定判決の事実認定がそのまま維持し得るかどうかの判断を通じて、請求人のために無罪の裁判をなしうる蓋然性があるとの心証が得られるかどうかを判定することによつて行うこととする。

2 ただ、本件の川村すな絞殺事件では、後にみるとおり、請求人に対する逮捕状、勾留状の被疑事実、起訴状の公訴事実、一審判決での認定事実、控訴審判決での認定事実の各事実相互間に大小の喰いちがいがみられることからもうかがわれるように、請求人に対する右事件の捜査段階から公判審理の段階を通じて、事実認定が必ずしも容易でなかつたことが知られるのであり、また右事件発生後一四年余を経過した時点でその真犯人であることを名乗り出て犯行の詳細を自供し、本件再審請求の端緒となつた乙野春夫の供述内容の信憑性の判断の複雑さが右に勝るとも劣らないものとみられることは、右乙野の供述に対する評価がその訴追側と公判裁判所との間で真向から対立していたことの一事からも推測されるところである。のみならず、これも後にみるとおり、右事件に対する犯人の結びつきを認定するうえでの重要な事項に対する鑑定人の鑑定結果および裁判所の検証結果についての第一審判決およびこれを維持した控訴審判決の証拠評価にはとくに検討を要する事情にあることまで加わつている本件においては、右事件発生時より二〇年以上を経過して、関係人の右事件の記憶の多くが消失変容し、しかもその突然の死亡により乙野春夫を取調べて直接の心証を得ることができない現在、前記各新規証拠の信憑性を判断するに当つては、右事件発生当時の被害現場の状況および請求人および乙野春夫に対する捜査、公判審理の状況、とくに関係諸証拠の蒐集経緯を含めた本件再審請求に至るまでの経緯をつぶさに検討することがとりわけ必要であると考えられる。そこで以下まず右の点の検討結果をあらかじめ判示しておく。

四本件再審請求に至るまでの経緯

本件再審請求事件記録、当裁判所の事実調べの結果、東京地方裁判所昭和四二年合わ第五七号、乙野春夫に対する強盗殺人、強盗強姦未遂被告事件記録(一九冊、この記録中に、請求人に対する強姦致死、殺人被告事件の第一審および控訴審の確定記録二冊、青森地方検察庁の公判不提出記録三冊を含む。)、東京高等裁判所昭和四三年(う)第一七九二号、右乙野春夫に対する控訴事件記録三冊により、認定できる本件再審請求に至るまでの経緯は、次のとおりである。

1  請求人に対する有罪判決が確定するに至るまでの経緯

(一) 事件発生当時の現場等の状況

(1) 昭和二七年二月二六日午前、青森県東津軽郡高田村(現在、青森市)大字小舘字桜苅一六四番地川村すな(明治二八年二月二一日生)方六畳間寝室において、同女が何者かに絞殺されているのが発見された。同女は、一人暮しであつたところ、前日夕刻から泊りに来ていた同女の甥である乙野義昭(当時一六才)が、翌朝の七時ころ、同女に起床するように声をかけたが返答のないことから、同女の死亡を知り、直ちに帰宅して父石蔵(同女の実弟)に知らせたため、同人や同女の姪である宮崎コヨらが現場にかけつけ、右の死亡を確認する一方、額に傷があるうえ、顔面に鼻血が付着していたことや室内の状況などから、何者かに殺害されたのではないかとの疑いから、同部落内の親類縁者には勿論、高田駐在所の巡査森内盛治郎、高田村診療所の医師荻原清澄にも通報した。かくて、現場には、同日午前九時四〇分ころ、右森内巡査、荻原医師がかけつけ、右死体を見分して変死人と判断し、同一〇時ころ、右森内巡査が青森地区警察署に連絡するとともに、右荻原医師が死体検案をなし、午後三時三〇分ころから、右警察署の係員により、被害者川村すなに対する殺人事件(小舘の老婆殺事件)として本格的な捜査が開始された。

(2)、(3)<省略>

(4) 死体となつて発見された被害者は、普段のように六畳間寝室の布団の中で額辺まで掛布団がかけられ、一見就寝中のごときであつた。すなわち、前記のように一番最初に発見した長内義昭は、前日午後一〇時ころ、被害者方に泊りに行つた際、いつものように伯母が六畳間寝室に敷放している自分の布団の中で眠つているものと思い、その死亡に気づかず、被害者の横に敷いてある布団に入り、翌朝まで眠り込んでいた程であつた。

しかしながら、被害が発見された当日、司法警察員梅木良男のした実況見分の際、右被害者の掛布団一枚をめくつてみると、ラクダ色の古毛布一枚が死体の上にかけられ、足の方はその毛布が縦にはさまれ、両手を拡げて頭部を少しく南に向けて仰向けになつており、身につけていた着衣は、上から、毛布製上張り、毛糸胴着、絣上張り、真綿胴着、長襦袢、コットン肌着、本ネル肌着で、締めていた紐はとられ、右上半身の着衣が甚しく乱れ、胸部を開けていた。その腰部には、毛糸製腰巻、毛布製腰巻が腹部までまくり上げられていて、足部および陰部を露出していた。また、眉毛上部には三か月形の傷があつてそこに少量の出血を見、右頸部には何かで絞められた跡が一条走つていて、口が堅く閉じてあり、陰部付近には精液らしいものが付着していたほか、左頸部にも爪で掻いたような傷があつた。そして、右六畳間寝室には、被害者の付近に、頭部の方に座布団とその上にモンペが裏返しとなり、紐が切れている状態にあり、被害者の横に日本手拭、西洋タオル、黄色の木綿紐、靴下、別の腰巻などが置かれてあり、隣の四畳半の居間には、枕、靴下、ストキッキング、モンペ、針箱、風呂敷などが散乱していた。

(二) 捜査の概況

青森地区警察署では、同月二六日午後三時三〇分ころ、署長以下の捜査担当者が事件現場に着き、捜査本部を近くの中野坂小学校に置いて捜査を開始し、同三時四〇分ころから実況見分、検死を行うとともに、先に現場に到着していた荻原医師が引続き死体検案を行なつた。これと平行して、右捜査本部では聞込み捜査によつて、現場付近を徘徊していた者の有無について調べた。また被害者の右肩付近にあつた日本手拭一枚および同寝室隅にあつた銚子一本が、実況見分の立会をした被害者の長男である川村芳男らに示してもその所有者が不明であることから、これらを犯人が遺留した重要な証拠物と考えた。また、捜査本部では現場の状況から、犯人は、被害者の身寄りの者か被害者方の事情に明るい者と推定するとともに、犯行の状況については、被害者は、四畳半の居間で紐の様な物により絞殺された後、六畳間寝室に運び込まれた後、姦淫されたもので、犯行時刻は同日午前零時前後であろうとの見当をつけ、さらに金品も盗取されているのではないかとの疑いを持つた。翌二七日、捜査本部を部落の集会所に移し、前日に引続いて被害者方に出入りしていた者の事情、被害者の甥にあたる、乙野三蔵の子供たち(乙野春夫が含まれる)が被害者方に寝泊りしていた事情等を把握するための関係人からの供述聴取がなされたほか、この段階で請求人に関する部落内の聞込み捜査が開始された。また、同日発付の鑑定処分許可状にもとづき、同日午後二時三五分から同六時四五分までの間、弘前大学教授赤石英を鑑定人とする被害者の屍体解剖がなされた(鑑定事項および鑑定結果は、別紙四の同鑑定人作成の同年三月一一日付鑑定書記載のとおり)。同月二八日には、主として、被害者の日常の生活事情についてその親類、縁者からの事情聴取がなされ、同月二九日、捜査本部は、前記鑑定人赤石英から屍体の陰部付近に付着した糊状物体は人間の精液である旨の電話連絡を受けた。また請求人甲野について、高田村役場でその身分関係の調査を行なつた。翌同年三月一日に至り、川村芳男から、被害者方から一、〇〇〇円位紛失している旨の被害顛末書が提出された。また同日、捜査本部は、請求人に関し、それまでの捜査の結果得た後記のとおりの資料にもとづき、川村すな絞殺事件の被疑者として後記のとおりの被疑事実により請求人を逮捕すべく、青森地方裁判所に対し、請求人に対する逮捕状および捜索差押許可状の各請求をなし、即日、右各令状を得た。翌同月二日午前六時四五分後記請求人の自宅で、請求人を逮捕するとともに、請求人の妻甲野花枝、その母乙野春子のほか、鎌田謙治、乙野義昭、川島明らに対し、主に事件発生当日の請求人の行動について取調べをした。

乙野春夫(当時「春雄」の文字を使用)に対しては、請求人が逮捕された翌日である同月三日青森地区警察署に任意出頭を求め、同所において同人が犯人(請求人の共犯者)であることの可能性を前提として取調べを行ない、他方、部落内においても同人を含む嫌疑者の事件発生当日の動静について同部落の居住者を参考人とする取調べをし、これらの者に対する嫌疑を解消した。右請求人の逮捕後、同月二三日その起訴に至るまでの間、後記のとおり同警察署および青森地方検察庁において同人の取調べをする一方、前記桜苅部落内に居住する参考人らを取調べることにより請求人に対する前記被疑事実の傍証固めを行なつたが、この段階においては、後に原判決が請求人の罪責を肯定するうえで有力な証拠とした、同部落の居住者である柴田武良、柴田フミ、柴田公人、柴田厳、柴田洋らが本件発生当夜現場付近で請求人を目撃した事情については、これを探知することができなかつた。

(三) とくに請求人に対する捜査の状況

(1) 請求人甲野は、大正一〇年七月一二日青森市古川で出生し、同地の尋常小学校を卒業後、同市内のトタン屋に奉公し、その後兵役に服し、陸軍航空隊の無線通信業務に従事し、昭和二〇年八月復員して再びトタン屋に奉公した後、トタン屋を自営していたところ、その間の同二一年一一月、妻花枝と結婚していたが、同女が、そのころから結核性脊髄カリエスに罹り、同二五年八月ころ、実家である前記高田村大字小舘字桜苅四五番地に戻つたため、請求人も妻の後を追い、そのころ同所に本籍を移し、そこで妻の祖父直吉、祖母キエ、母春子、弟隆一、同孝雄らと同居することとなつた。そして、請求人は、従来からの仕事場である青森市内に働きに出ていたが収入は十分でなく、妻の実家の援助を受けて生活していた。

(2) 前記川村すな絞殺事件の捜査本部では、本件事件発生後間もない同二七年二月二七日、乙野義昭に対する取調べの結果、同人から請求人甲野が被害者方に出入りしたことがあるうえ、前記犯行現場に遺留されていた日本手拭が請求人甲野の使用していたものと同一のものではないか、との供述を得たことにより、請求人に対する嫌疑を深め、請求人の生活態度や動静について聞込捜査をなした結果、同年三月一日請求人は、(イ)、同年二月一日ころ、被害者方の風呂を修理し、かつ、同月二三日ころ、入浴しに行き、被害者方の事情に通じていた、(ロ)、妻が結核性脊髄カリエスに罹り夫婦間の性交渉が不自由であるうえに、一定の職がなく生活費に窮していた、(ハ)、同月二五日午後五時ころ、長内石蔵方で飲酒し、同六時ころ、里村商店よりたばこを買つた後、その行先が不明である、(ニ)、現場に日常使用の日本手拭を遺留している、との各事情を認め、請求人が同事件の犯人である、との判断に達した。

(3) 請求人は、前記のとおり同年三月二日午前六時四五分、自宅で逮捕されたところ、逮捕状に記載の被疑事実の要旨は、「被疑者は、昭和二七年二月二五日午後一〇時ころ、東津軽郡高田村大字小舘字桜苅無番地川村スナ(当五八年)方に赴き、同人がこたつにあたつているところを同人の着ている着物の襟で頸部を絞めて絞殺し、同所より同人の寝床に運んで姦淫し、同人が所持していたチャック付財布より、現金一、〇〇〇円位を窃取した。」というものであつた。

請求人は、同日午前九時二〇分青森地区警察署に引致され、翌三日午後七時三〇分青森地方検察庁に送致され、さらに、その翌四日逮捕状に記載の被疑事実の要旨と同一の事実を記載した勾留状により、同午後七時三〇分同警察署留置場に勾留され、同月一三日「事案複雑にして関係者多く取調未了」を理由として同月二三日まで勾留期間の延長がなされた。なお、その間の同月一二日、請求人の身柄は、右留置場から柳町拘置支所は移監された。

(4) 請求人は、前記逮捕の当日から起訴の当日までの間、捜査官の取調べを受けたが、その状況は次のとおりである。

(イ) 三月二日青森地区警察署において、午前一〇時一〇分、同署司法警察員梅木良男により、前記逮捕による弁解の機会が与えられ、その弁解録取書が作成された(被疑事実を全面否認)。

(ロ) 同月三日同署において、右梅木良男により、身分、前科前歴、経歴、家族、資産、生活状態などの各関係、および、同年二月二五日の行動、以前被害者方を訪問した事実につき取調べがなされ、その司法警察員に対する第一回供述調書が作成された(前同様否認)。

(ハ) 同月四日青森地方検察庁において、午前二二時三〇分、検察官渡辺彦一により、弁解の機会が与えられ、その弁解録取書が作成された(金員奪取の点を除き自白)。

同警察署において、右梅木良男により、同年二月二五日夕刻からの行動、被害者方に赴いた事情、犯行の動機、犯行の状況について取調べがなされ、その司法警察員に対する第二回供述調書が作成された(金員奪取の点を除き犯行を自白)。青森地方裁判所において、裁判官の勾留質問が行われ、その勾留質問調書が作成された(金員奪取の点を除き犯行を自白)。

(ニ) 同月五日同警察署において、右梅木良男により、犯行の動機、犯行の状況、被害者方の知情の点、現場に遺留された日本手拭の点、以前靴を売買した点、犯行翌日(二六日)の行動、逮捕前後から自白するまでの心境について取調べがなされ、その司法警察員に対する第三回供述調書が作成された(金員奪取の点および日本手拭遺留の点を除き犯行を自白)。

(ホ) 同月八日同警察署において、同署司法警察員(警部補)三浦永作により、被害者方に赴くまでの事情、犯行の動機、犯行の状況(但し、金員奪取の点を除く)、犯行後帰宅するまでの事情につき取調べられ、その司法警察員に対する第四回供述調書が作成された(犯行を自白)。

(ヘ) 同月二一日同警察署において、前記梅木良男により、主として妻の健康状態と夫婦間の性交渉について取調べられ、その司法警察員に対する第五回供述調書が作成された(犯行を自白)。

(ト) 同月一七日同検察庁において、前記渡辺彦一により、同年二月二五日の行動、被害者方に赴くまでの事情、犯行の動機、犯行の状況、犯行後の行動、前記日本手拭の点につき取調べられ、その検察官に対する第一回供述調書が作成された(金員奪取の点および日本手拭遺留の点を除き犯行を自白)。

(チ) 同月二二日同検察庁において、検察官佐藤鶴松により、身分、生活、経歴の各関係、および、同年二月二五日の昼間から夕食時までの行動について取調べられ、その検察官に対する第二回供述調書が作成された。

(リ) 同月二三日検察庁において、右佐藤鶴松により、右二五日の夕刻の行動、虚偽の自白をした旨およびその理由、翌日(二六日)の行動、以前被害者方に赴いた時の事情、現場に遺留された各証拠物について取調べられ、その検察官に対する第三回供述調書が作成された(全面否認)。

(四) 請求人に対する公訴の提起

青森地方検察庁検察官佐藤鶴松は、昭和二七年三月二三日青森地方裁判所に対し、請求人を強姦致死、殺人の罪名のもとに、刑法一八一条、一九九条に該当するものとして起訴した。公訴事実は、「被告人は、昭和二七年二月二五日午後七時頃、東津軽郡高田村大字小舘字桜苅一六四番地寡婦川村すな(明治二八年六月二二日生、満五六才)方において、こたつにて同女と対談中劣情を催し、同女に対し、「やらせろ。」と情交を迫りたるも拒否せられるや、矢庭に手拳をもつて同女の胸部を突き、同女が倒るるやこれを隣の寝床にだき抱え仰向けにしたるも抵抗にあい、むしろ同女を殺害するに如ずと決意し、両手にて紐様なものにて同女の頸部を絞めて抵抗を抑圧し、同女の陰部に陰茎を没入して性交を遂げ、もつて同女を強いて姦淫して同女をして窒息死に至らしめたものである。」というのであり、この起訴状の謄本は同月二四日請求人に送達された。

(五) 第一審における審理

(1) 公判、証拠調の各期日の概況

請求人に対する右起訴の事件は、青森地方裁判所に、同裁判所昭和二七年(わ)第四九号事件として係属し、同年四月一四日から同年一二月五日判決の宣告を受けるまでの間に前後八回の公判期日と二回の証拠調期日を開いて審理され、この間、罪体についての証拠として、検察官の申請にかかる証人二五名、証拠物一六点、実況見分調書一通、鑑定書三通、被告人の供述調書九通(勾留尋問調書一通を含む)、上記以外の書証五通、現場検証一回の、弁護人の申請にかかる証人八名、現場検証一回の各証拠調べがなされた。なお右検察官申請の証人のうち、柴田武良、柴田フミ、柴田公人、柴田厳については、右起訴後、警察官が本件発生の日の夜、墓参りの者が被害者方の方から自宅へ向つて歩いていた請求人を見た者がいる、との聞込みにより、これが右柴田武良ら四名であることを確かめ、この事情を知つた検察官が急拠これらの者についての証人尋問請求を追加したことによるものであつた。請求人は、被告人として、右の各期日に出頭した。

(2) 弁護人<略>

(3) 公判廷での被告人、弁護人の主張

請求人は、第一回公判期日において起訴事実を全面的に否認し、以後の公判廷でもこの態度を一貫した。弁護人が主張した被告人(請求人)が無実であることの根拠は、(1)現場に遺留の日本手拭は被告人の持物でないことが判明した(2)部落内では他に真犯人がいるのではないかとの風評がある(3)被告人の捜査官に対する自白の内容にはくい違いがある(4)被告人の本件発生当夜、自宅に居たものでアリバイがある、一方、被告人をそのころ現場付近で目撃した旨をいう柴田武良らの供述は、当日の日没時刻(午後五時三〇分ころ)と相互の位置関係から人物の識別が不可能であるから、その真実性が薄いものである(5)公判廷で取調べた鑑定書および現場の状況から本件犯行時刻は、午後七時以降であると思われ、被告人の自白する当夜の行動とは時間的に符合しない等の諸点を強調するものであつた。

(4) 第一審で審理中の請求人の態度<略>

(六) 請求人に対する第一審判決

請求人に対し、同二七年一二月五日宣告された第一審判決は、別紙一のとおりであるところ、同判決が援用した各証拠の内容(ないしその要旨)は、次のとおりである。<中略>

(七) 上訴と判決確定に至るまでの経緯

(1) <略>

(2) 控訴審における審理

仙台高等裁判所は、昭和二八年三月一〇日から同年六月一五日までの間三回の公判期日と一回の証拠調期日を開き、弁護人の申請による犯人の目撃に関して共同墓地付近の現場検証、被告人の精液についての血液型鑑定、証人(甲野雪枝、鎌田謙治、乙野ハル、乙野義昭)の各尋問の申請に対し、検証、証人(甲野雪枝、乙野義昭)尋問のみを採用して、その余を却下し、他方、職種による証人柴田武良、同柴田公人の尋問を決定して、これを実施し、一旦判決宣告期日の指定をしたが、同年六月三〇日弁論を再開して、鑑定人赤石英による被告人の唾液の鑑定と、同人を証人として尋問する旨の決定をして、これを実施(同鑑定人の鑑定書は、別紙六のとおり)のうえ、同年八月二二日別紙二のとおりの控訴棄却の判決を言渡した。

(3) <略>

2  判決確定後本件再審請求に至るまでの経緯

(一) (請求人の服役中および服役後の生活態度)

(1) 請求人は、右判決が確定した同年九月六日から宮城刑務所において服役し、初期矯正教育を受けた後、同年一一月二一日秋田刑務所に移送され、以後同所において服役した。同刑務所においては、営繕関係の土工夫や板金工などの作業に従事し、当初編入された第四級から、同二九年一〇月一日第三級に、同三〇年一〇月一〇日第二級に、同三一年八月一日第一級にそれぞれ進級し、その各進級の際の評価では、操行・責任意志・作業成績がいずれも優、総評が優または優上、人格面では、知能普通下と判定されているものの、読書を好み、内向的で真面目であるとの判定を受ける好成績を示し、同三三年一月三一日東北地方更正保護委員会で仮出獄の許可決定がなされ、同年二月一八日仮出獄の恩典を受けて、出所した。

(2) 請求人は、右服役中の同三二年五月二一日妻雪枝が病死したため、出所後は仮出獄の際の身元引受人である青森市古川に居住の実父甲野三郎のもとで生活し、板金工の仕事に従事し、同三四年現在の妻光子と結婚し、同女との間に一女をもうけ、その後現住所に移転して現在に至つているが、この間真面目に過し、もとより事故を起すようなことはなかつた。

(二) (請求人の再審請求に対する態度)

請求人は、昭和四二年二月二三日ころ、後記のように乙野芳春が東京地方裁判所に起訴されたことを知り、同年三月五日、日本弁護士連合会人権擁護委員会あてに本件再審請求をするための援助を要請する趣旨の手紙を出し、本件再審請求の申立てをみるに至つたものであるが、請求人は、服役中において、看守らに対し自分が無実であることを述べたことはなく、さらに前記妻花枝を含む自己の親類、縁者などへの書信中にも、自己の無実を訴えたものがなく、仮出獄により出所した後においても、前記日本弁護士連合会に対し要請するまでの間、前記妻みつを含む自己の周囲の者に対し、右服役の事実を隠すことに努め、自己の無実を明らかにしようとする積極的な言動を示したことはなかつた。

(三) (乙野春夫の犯行供述と同人に対する捜査と公判)

(1) 乙野春夫は、昭和八年三月三日、本籍地である青森県東津軽郡高田村(現在、青森市)大字小舘字桜苅一九一番地において、農業兼博労をしていた父石蔵と母つげの間の四男(兄正美、亡義美、義光の三名、姉三人ミキ、亡タミ、フサエの三名および弟義昭、昭雄、利男、正志の四名)として出生し、幼時期に一家とともに北海道釧路市に移住して同地の高等小学校を卒業し、その後、兄らとともに炭鉱の組夫として働いたが、同二三年三月、両親や弟達とともに本籍地に帰つて農業の手伝いをした。同二五年秋頃、再び釧路市に戻り、右炭鉱の組夫となつたが、一時的屋の組織に入り不良仲間と交際してその稼業の手伝いをすることもあつたところ、同二七年七月ころ、仲間と窃盗を犯したことにより保護観察処分を受けたため、再び本籍地の両親のもとに戻り、そこで農業の手伝いや日稼人夫などをし、余暇には、請求人が当時居住していた同人の妻花枝の実家と隣合わせであつたところから、請求人と親しく交際し、川村すな絞殺事件が発生した「三歳」の日も、午前中から夕食時前まで、自宅で同人と酒を飲んで雑談を楽しんでいた。

(2) 乙野春夫は、右事件の捜査本部から、一時、請求人の供犯者ではないかとの嫌疑をかけられ、前判示のとおりの取調べを受けたが、程なく右嫌疑が解かれ、その後青森県下で道路工事人夫、炭鉱夫などをし、同二八年一月、同部落の鎌田清春とともに北海道帯広市に駐とんの保安隊(陸上自衛隊の前身)に入隊し、二年の満期除隊後は、北海道内や青森市内でトラックやタクシーの運転手、青森県内で道路工夫などの職業を転々とし、その間に同三一年毛利さとと結婚して二人の女児をもうけた後同三三年同女と離婚し、そのころ知合つた坂本ちよえと結婚してさらに二人の女児をもうけた。乙野春夫は、同三八年一月ころ、同女および二人の女児を自己の実家に預け、自らは神奈川県川崎市内のタクシー会社の運転手をし、同年三月ころ実家から右妻子を呼び寄せ、これと同居したが、同年一二月ころ同女に二人の女児を残したまま家出され、その後、同四一年二月前記両親の住む本籍地に帰るまでの間東京、横浜などのタクシー会社を転々としてタクシーの運転手として暮らした。これに至るまでの間に同人には前記少年時の非行歴のほか、次のとおりの犯罪歴(道路交通法違反関係の四件を省略)が生じた。すなわち、(1)、昭和三二年六月二五日、蟹田簡易裁判所において、窃盗罪により、懲役八月、執行猶予三年に処せられ、(2)、同三七年三月二六日、帯広簡易裁判所において、暴行罪により、罰金三、〇〇〇円に処せられ、(3)、同四〇年八月一〇日、青森地方裁判所において、窃盗、詐欺各罪により懲役一年六月、執行猶予四年に処せられた。

(3) 乙野春夫は、昭和四一年二月二三日実家において、上京中に犯した元稼働先のタクシー会社の役員に対する脅迫事件で逮捕され、翌二四日警視庁本所警察署に護送されて同署留置場に勾留され、同年三月五日脅迫罪で、同月一六日窃盗罪でそれぞれ東京地方裁判所に起訴され、同年四月三〇日、同裁判所で懲役一年の判決を受け、同年五月一五日右判決が確定した。ところで、同人は、その間の同年四月上旬、右本所警察署の看守係を通じて、右脅迫事件の取調べに当つた同署勤務の司法警察員伊藤良喜らに対し、一四年前の川村すな絞殺事件の真犯人は自分である旨告白し、同年四月八日、最初の司法警察員に対する供述調書が作成され、その後、同署の司法警察員や東京地方検察庁特捜部に所属する検察官の取調べを受けた。乙野春夫の右事件の右自白供述が録取された日時、同場所、録取者、録取形態およびその関連事項は、次のとおりである(左の各証拠のうち、番号(1)、(2)が前記本件新規証拠前第一の2の(一)、番号(7)が同前第一の2の(二)、番号(8)ないし(10)、(12)が同箭第一の2の(三)、番号(15)が同前第一の2の(四)である。)。

番号

自白録取日時

同場所

録取者

録取形態

(1)

昭和四一年四月八日

本所警察署

司法警察員(伊藤良喜)

供述調書

(2)

同年五月一四日

右同

右同(遠藤義衛)

右同

(3)

同月一七日

東京地方 検察庁

検察官(山崎恒幸)

録音テープ

(4)

同月一九日

右同

右同(右同)

右同

(5)

同月二〇日

右同

右同(右同)

右同

(6)

同月二四日

右同

右同(右同)

右同

(7)

同日

本所警察署

供述書

(8)

同月三〇日

右同

検察官(山崎恒幸)

供述調書

(9)

同月三一日

右同

右同(右同)

右同

(10)

同日

東京地方 検察庁

右同(右同)

右同

(11)

同年六月一二日

本所警察署

司法警察員(遠藤義衛)

右同

(同月一三日  本所警察署から東京拘置所へ移監)

(同月一六日  東京拘置所から中野刑務所へ移監)

(同年七月二五日中野刑務所から東京拘置所へ移監)

(12)

同年一一月一七日

東京拘置所

検察官(中野博士)

供述調書

(13)

同四二年二月二一日

右同

右同(山崎恒幸)

右同

(同日  逮捕(強盗殺人、強盗強姦未遂))

(14)

同日

東京拘置所

検察官(山崎恒幸)

弁解録取書

(15)

同月二二日

東京地方 裁判所

裁判官

勾留質問書

(同日  勾留(強盗殺人、強盗強姦未遂))

(4) 以上のように、乙野春夫は、自己が川村すな絞殺事件の真犯人である旨の自白を繰返してきたのであるが、同四二年二月二三日、前記検察官山崎恒幸に対し面会を求め、突如、これまでの自白は虚偽なものである旨述べ、全面的に前記犯行を否認するに至つた。検察宮山崎恒幸は、同日右川村すな絞殺事件の公訴時効の完成する同月二五日を目前にして、東京地方裁判所に対し、乙野春夫を前記川村すな絞殺事件の真犯人であるとして、前記逮捕の際と同一の罪名で起訴(その起訴状(これが前記本件新規証拠前第一の1である)記載の公訴事実は、「被告人は、一人暮しの伯母川村すな(当時五七年)が小金を蓄えているものと見込み、遊興費欲しさから同女を殺害してでもその金員を奪取しようと決意し、昭和二七年二月二五日午後九時過頃青森県東津軽郡高田村大字小舘字桜苅六四番地の同女方に赴き、四畳半の居間で針仕事中の同女の隙を窺い、いきなり背後からマフラーをその頸部に引つかけて俯伏せに押し倒しながら絞めつけ、失神状態に陥つた同女を奥六畳の寝室に運び込んだところ同女の裾が乱れているのを見て俄かに劣情を催し、強いて同女を姦淫しようとしたが射精が早くて未遂に終り、その儘間もなく同女を右頸部絞圧によりその場で窒息死させて殺害し、次いで同屋内を物色し同女所有の現金三〇〇円位を強取したものである。」とするものである。)し、起訴前の捜査により収集した前記本件新規証拠中、前(3)に掲記の各供述調書、供述書、勾留質問調書および鑑定人赤石英作成の昭和四一年一二月一六月付鑑定書(前第一の3の(一)のもの)、鑑定人上野正吉作成の同四二年二月三日付鑑定書(前第一の3の(二)のもの)の取調べを請求し、同裁判所(刑事第九部)では、同年五月一九日から同四三年五月二八日までの間、前後一三回の公判期日と二回におよぶ青森市などにおける出張の証拠調期日を開いて審理をなし、同年七月二日、乙野春夫に対し、同人の前記自白は虚偽であり、同人は右事件の犯人ではない、と認めて無罪判決を言渡した。東京地方検察庁検察官は、同月一六日右無罪判決に対し控訴の申立をし、右判決には、証拠の取捨評価を誤り、ひいては重大な事実を誤認した違法があり、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるとして、その詳細な主張を控訴趣意書で展開するとともに、第一審判決後に収集した前記本件新規証拠中、鑑定人上野正吉作成の同年一〇月二二日付鑑定書(前第一の4の(一))および鑑定人山沢吉平作成の同月二五日付鑑定書(前第一の4の(二))の取調べを請求した。右控訴事件を担当の東京高等裁判所(第九刑事部)では、同四四年一月二四日の第一回公判期日から同四五年三月二七日の第五回公判期日まで審理を重ね、その間の同四四年二月一七日、事件現場付近の共同墓地およびその付近において、現場検証を行なつたが(この検証の結果を記載した検証調書が、前記本件新規証拠中、前第一の5である。)、被告人である乙野春夫が、同四五年五月五日、神奈川県川崎市内にある勤務先のタクシー会社の営業所内で、理由不詳の自殺を遂げたことが発見され、このため同人に対する被告事件は、公訴棄却の決定により終局した。同人は、前記別件の刑(脅迫、窃盗罪の懲役一年、執行猶予取消となつた窃盗、詐欺罪の懲役一年六月)について、同四三年一〇月二二日満期釈放となり、山崎市内でタクシーの運転手として働きながら、右控訴事件の審理に対していたものであつた。

五、新規証拠の位置づけ

請求人に対する第一審判決およびこれを維持した控訴判決は、(一)請求人の自白に信憑性があること(その根拠の一として右自白内容が被害者および被害現場にみられた犯行の証跡と一致すること)(二)被害者の身体および着衣に付着の精液斑が請求人に由来するものであること(三)請求人が犯行直後の時点で被害者方の付近において被害者方の方向から歩いてきた事実があること、おおよそ以上の各事実を認定する証拠判断の上に立つて、請求人の罪責を肯定したものである(別紙一および二の各判決参照)。ところで本件における前記の各新規証拠のうち、乙野春夫の各自白記載書面(前記第一の2の(一)ないし(四))および鑑定人赤石英作成の昭和四一年一二月一六日付、同上野正吉作成の同四二年二月三日付各鑑定書(前記第一の3の(一)および(二))は、右(一)の認定事実に、鑑定人上野正吉作成の同四三年一〇月二二日付、同山沢吉平作成の同四三年一〇月二五日付各鑑定書(前記第一の4の(一)および(二))は、右(二)の認定事実に、東京高等裁判所の前記検証調書(前記第一の5)は、右(三)の認定事実にそれぞれ対する関係において、これらの各事実認定そのものないしは右事実認定の前提事項についての事実認定を覆えす内容のものである。しかして、右乙野春夫の各自白記載書面の信憑性が高いものと判断されて、右(一)の事実認定が否定され、あるいは前記遺留精液斑と請求人の血液型が相異するとして右(二)の事実認定が否定されると、川村すな絞殺事件の真犯人は、請求人とは別人であることとなり、また、(三)の事実認定の点については、これが否定されただけで直ちに請求人の真犯人であることが否定されることにはならないけれども、請求人を真犯人とする重要な根拠の一が崩れ、請求人の真犯人でない可能性が増大する関係にある。ところで、右(一)の認定事実に対する新規証拠(前記第一の2の(一)ないし(四)および3の(一)および(二))の明白性の判断が、前判示の右事件発生時から本件再審請求に至るまでの諸般の事情との関連の下に、請求人の自白の信憑性の判断と表裏をなすものとして検討される必要のものであることは、前述したところであるが、このほか、右判断は、さらに右(二)および(三)の各認定事実に対する各新規証拠(前記第一の4の(一)および(二)ならびに5)の明白性の判断とも密接に関連するものであるから、以下まず(二)、次いで(三)、最後に(一)の順序により、右の各認定事実に対する本件各新規証拠の明白性について判断する。

六、遺留精液斑の血液型判定(新規証拠第一の4の(一)および(二)関係)について

1  本件遺留精液斑についての第一審判決およびこれを維持した控訴審判決の事実認定は、(一)遺留精液斑は、A型の血液型である、(二)請求人の血液型はA型である、(三)請求人の血液型と遺留精液斑から判定された血液型とが符合する、(四)右精液斑の遺留者(犯人)は、請求人である、としているものと解されるところ、右(一)および(二)の各判断から(三)の判断をするに当り、第一審における審理では、鑑定人赤石英を証人として喚問し、「遺留精液の血液型と被告人(請求人)の血液型は同一であつた」旨の証言(第一審第三回公判調書中の同証人の供述部分、記録二の二三八五丁)を徴しただけであり、体液中に分泌されている血液型の判定を可能ならしめる物質(註・「血液型物質」とも単に「型物質」とも呼ばれる抗原物質)の分泌程度についての格別の吟味がないままに終つたところ、控訴審では、同証人から「本件で被害者の腰巻に付着の精液は、型物質が証明されているから排出型(註・「分泌型」と同じ)であり、A型の人の精液であることが断定的に言える。被告人の唾液を検べ、それが非排出型(註・「非分泌型」と同じ)であると判れば、被告人は、右腰巻付着の精液の人と違うことが確定的に判る」旨の証言(控訴審同二八年七月二五日の公判調書中の同証人の供述部分・記録二の二一〇七丁以下)を徴したうえ、同人を鑑定人とする別紙六の鑑定書(被告人の唾液が型特異性凝集阻止物質(註・前記「血液型物質」の意味)を多量に含んでいることを理由に、A型の強分泌型、すなわち分泌型と判定)を取調べて、右第一審の判断の裏打ちをしたものであつた。

2  ところで、本件第一の4の(一)および(二)の各新規証拠のうち、上野正吉作成の鑑定書では、「甲野四郎の血液型は、A非分泌型に属し、その精液中に含有されるA抗原量(註・「A型の血液型物質」の意味)は、非分泌型の特性に一致し、極めて微量である。」旨の、山沢吉平作成の鑑定書では、「甲野四郎の血液型は、明らかに非分泌型(se)に属し、分泌型と非分泌型の中間に属する所謂中間型の如きものであるとする根拠は得られない。」旨の各鑑定結果が示され、前記別紙六の赤石英作成の鑑定書における鑑定結果と対照的な内容となつている。しかして右上野、山沢両鑑定人の各鑑定書によると、右両鑑定人は、右赤石鑑定人の鑑定におけると同様、請求人の唾液を検体として凝集阻止試験を行なつたほか、前記第二の二後半に判示のとおり、有効、適正とされるそれぞれの試験方法による検査を行ない、いずれも矛盾するところなく、前記の鑑定結果に到達したものであり、したがつて、右鑑定結果に疑問をさしはさむ余地は認められない。ただ、右赤石鑑定と右上野、山沢両鑑定の間には、提供された請求人の唾液に一五年の時間の差があるが、かかる唾液提供者の年令の変化をはじめとして、その身体的事情、唾液の処理方法、反応(吸収)時間と温度、唾液に反応させる抗血清の力価に対する評価等の差異により、右検査結果の数値が変動することは避けられないところであるが、これらは、いずれも判定結果である血液型物質の分泌量にして二倍ないし四倍あるいは二分の一ないし四分の一(倍数稀釈の試験管列にして前後一本か二本)の差となつて現れる程度のものであり、右赤石鑑定におけるような多量の血液型物質を含むところから分泌型と判定された唾液(右鑑定によると、請求人の唾液は、122倍(四〇九六倍)に稀釈(唾液中の血液型物質を四〇九六分の一に減量)しても、なお抗体約一二単位の強い抗A凝集素を吸収して、右抗A凝集素のA型血球に対する凝集反応を阻止するに足る血液型物質を含んでいることを示している。)が、右上野、山沢両鑑定におけるような微量の血液型物質しか含まないところから非分泌型と判定されるような唾液(請求人の唾液は、右上野鑑定によると、12倍(二倍)に稀釈した段階まで抗体八単位の抗A凝集素を吸収し、右山沢鑑定によると、42倍(一六倍)に稀釈した段階まで抗体四単位の抗A凝集素を吸収して、それぞれ右抗A凝集素の凝集反応を減弱させるけれども、次の段階に倍数稀釈すると、もはや凝集阻止反応を示さない程度の量の血液型物質しか含んでいないことを示している。)に変化するような大巾な変化を示すことを認めた事例も理論もない(前記上野正吉作成の鑑定書ならびに乙野の控訴事件の第二、三回公判調書中同人の供述部分、当裁判所の同人に対する証人尋問調書、前記山沢吉平作成の鑑定書ならびに右控訴事件の第二、四回公判調書中同人の供述部分、鑑定人吉田莞爾作成作成の昭和四五年二月八日付鑑定書ならびに当裁判所の同人に対する証人尋問調書、鑑定人村上利作成の同四三年七月一九日付鑑定書ならびに右控訴事件での同人に対する証人尋問調書)ことに徴すると、右赤石鑑定の結果は、請求人の唾液の血液型物質の量を検査したものとしては、とうてい採用しがたいものといわなければならない。(なお、本件の審理の過程でも、前記乙野春夫に対する被告事件の控訴審における審理の過程におけると同様、唾液や精液等の体液中に分秘されている血液型物質の有無ないしその分泌の程度を示す事例の公布状況から、分泌型と非分泌型の血液型分類を認める学説に対する様々の疑問を表明した多くの資料が提供されたのであるが、右の説示からも明らかなとおり、本件の審理においては、単に体液とりわけ精液中の血液型物質の量が請求人(および乙野春夫)につき具体的にどの程度のものであるか、を判定することが必要とされるにとどまり、それが分泌型、非分泌型のいずれに分類されうるかどうかは、直接的な意味がないものである。)

3、以上のように、右赤石鑑定の証拠価値が否定されると、前判示の趣旨で第一審の判断を裏打ちした重要な証拠が欠けることとなり、その結果、原判決の本件遺留精液斑が請求人に由来するものであるとの事実認定を覆えす結論に到るかにみえる。しかしながら、一般に非分泌型に属するとされた者においても、体液中に血液型物質が全く分泌されていないものは稀であり、現に、非分泌型とされた請求人においても、その体液中に血液型物質が分泌されていることが認められる(前記2の後半括弧中に掲記の各証拠)。したがつて、本件においては、前記各赤石鑑定書の遺留精液斑の血液型の判定(別紙四および五)が正当なものであることを前提とすれば、右精液斑が請求人のものと一致するかどうかをみるには、右赤石鑑定書におけると同様の検査方法を用いて、別途請求人に由来する精液斑を検査し、その結果を右の各赤石鑑定書の検査成績と比較してその異同を判定すれば足るのであるが、本件においては、右各鑑定書における検査に際して、赤石鑑定人が使用した請求人の精液斑の量が確定できないため、右直接の比較をすることができない実情にある。そこで、(一)請求人の精液量がどの程度あれば血液型の判定が可能となるか、を確定したうえ、(二)本件遺留精液斑の量が右(一)の血液型の判定を可能にする程度にあつたかどうかを検討することによつて、右遺留精液斑が請求人のものとみることに矛盾がないかどうかを判断するほかはない。

4  ただ、別紙四および五の各赤石鑑定書における本件各遺留精液斑からの血液型の判定結果につていは、前記別紙六の赤石鑑定書における請求人の唾液からの血液型の判定結果との関係において、検察官は、「赤石鑑定が同一検査方法で甲野四郎の唾液と屍体に付着していた精液を鑑定し、この両者の血液型が一致するものであるとの結論を出している以上、その一方が学問上非分泌型であれば、他方も、同様、非分泌型とみるのが当然の帰結である。」と主張して、その信憑性を疑問としている。ただその点については、赤石鑑定人の前記請求人の唾液型の鑑定と本件遺留精液斑の両鑑定とでは、その日時、場所、検査の具体的操作内容のいずれの点においても相異するものであるから、単に右唾液型についての前記判定結果のゆえをもつて、本件各遺留精液斑からの血液型の判定結果を疑問とすることは、当らないであろう。しかしながら、本件遺留精液斑から血液型を判定する過程における問題を、鑑定人の鑑定の段階からさらに右鑑定を依頼した捜査官の段階にまで遡つて、本件捜査当時の事情を検討すると、必ずしも正常とはいいがたい事態の少なくないことが判明する。すなわち、前記川村すな絞殺事件の現場の状況に照らし、被疑者の血液型を鑑定するに当つては、体液への血液型物質の分泌の程度(いわゆる分泌型か非分泌型か)を明らかにすることが不可欠であつたのに、これがなされたことを裏付ける資料は、見当らないこと、前判示のとおり、被害者の屍体検案に際して、医師荻原清澄が精液臭ありとして被害者の膣内から綿球をもつて採取した膣内容液は、同医師から犯行現場所在の警察官に交付されたところ、その後の所在が不明であること(第一審証人荻原清澄、同梅木(後に工藤と改姓)良男に対する各証人尋問調書・記録二の一二四九丁、同一九〇丁および乙野の被告事件での証人工藤良男に対する証人尋問調書・取寄記録一の二 二〇〇丁以下)、本件の主任検事として捜査に当つた佐藤鶴松(当時青森地方検察庁次席検事)は、右捜査当時の事情について、証人として次のような証言(乙野の被告事件での同証人に対する証人尋問調書・取寄記録一の三三二六丁以下)をしていること「(佐藤さんとしては起訴前にも否認しましたけれども甲野が犯人であるということは間違いないというふうに判断されていたわけですね。)私そう信じておつたです。(その一番の根拠はどういうことでしようか。)供述調書に即応するいわゆる犯罪事実の傷とか。血液型も違つたような気がするんです。(血液型が違うと言いますと、誰と誰がですか。)甲野の血液型と陰部から出てきた血液型と違うのではなかつたですか。何しろその辺あたりは研究したような記憶するんです。(万一血液が違つたらまずいでしよう。)いや、それがね、私丹念に聞いて集めたんですが。スモールとか何とか難かしいことを言うんです。我々よくわからないんですけれども、そこまでくるとだんだん違つてくるんだというようなことで、だんだん違う場合もあるというようなことを言つておつたんです。起訴前に。(しかしその点はどういうふうに判断されたんですか。)私は鑑定人の言うとおり考えて、違つてもこの場合は押しきれるという信念を持つていたんです。鑑定人は違つても構わない、そういう場合もあるんだというあれなんです。」そして、青森地区警察署司法警察員から青森地検検事正あての昭和二七年三月三一日付関係書類(鑑定書)追送書(取寄記録二の五四七丁)の余白には、起訴状および証拠申請書の下書き(取寄記録二の四一二七丁以下)から右証人佐藤鶴松の筆跡と判断される字体で各血液型の原理とその判定方法についてのかなり詳細なメモと、右追送書に付された符箋には、同人から担当警部あての「鑑定人について鑑定の説明を聞くこと」の指示がそれぞれ記入され、また同年四月七日付関係書類(鑑定書)追送書(取寄記録二の四 七九丁)には、同じ筆跡で「分泌型と非分泌型とはつまり血液型物質を出すものと然らざるもの」等のメモが記入されていることが認められ、前記証言(証言中に「スモール」というのは、非分泌型を意味するse型(スモールエス型)をいうものと考えられる。)と相まつて、遅くとも同年四月中旬の段階では、捜査官の側において、右遺留精液斑が非分泌型ではないかとの疑いを有していたのではないかと考えられる事情があること、他方赤石鑑定人が、請求人に対する前記被告事件の控訴審の審理において、「被告人の唾液、精液の型の検査をしたことがあるか」との質問に対し、「ありません。その材料を提供されたこともなく、それを命ぜられたこともありませんでした。」と証言(第二審同二八年七月二五日の公判調書中同人の供述部分・記録二の二一〇七丁)しながら、これよりさき、右事件の第一審の審理においては、前判示のとおり「本件遺留精液斑の血液型と被告人の血液型は同一であつた」旨の証言をしていること、同鑑定人の別紙五の鑑定書中、本件遺留精液斑のうち毛糸腰巻(ミヤコ)に付着分の血液型検査結果(同鑑定書記載第一表の「毛糸腰巻(ミヤコ)(証第五号)」の欄)は、対照との間に僅差しかなく、この種実験従事者の間では測定誤差等への配慮から、右の程度の差をもつて意味あるものと評価することに極めて慎重であるところ、右鑑定書においては、これが抗A凝集素を吸収した成績を示すものと評価して、右精液斑がA型であると判定され、その判定に対して他の同種実験従事者から「極めて大胆なる結論」ないし「やや大胆すぎる感がある」との批評がなされるものであること(鑑定人上野正吉作成の同四七年一二月一〇日付鑑定書)等、彼此の事情を考え併せると、右赤石鑑定人の両鑑定書における遺留精液斑に対する鑑定結果の信憑性に対しても何がしかの陰影が生じないではない。とはいえ、右の各事情は、いずれも遺留精液斑に対する検査結果そのものの正確性に対して直接的には関係のない事情(右毛糸腰巻(ミヤコ)に付着の精液斑の関係でも、検査結果に対する評価の段階にかかるもめであること)にすぎないから、以上の各事情が存在することだけで、右の各鑑定書における検査結果そのものの正確性を疑問とすることは、右検査が高度の技術的性格を有するものであるだけに、軽々になしがたいところであり、前記の別紙五の鑑定書の鑑定結果におけるようなそれに直接する特別の資料のない右両鑑定書の関係では、後に判示する本件新規証拠第一の3の(一)の明白性についての検討の際の必要上、単に、右特異な諸事情の存在を指摘するだけにとどめ、右の検査結果そのものは、これが正確であることを前提として、以下の判断をすすめることとする。

5(一)  右の両赤石鑑定書で採用されている血液型の検査方法によつて、請求人の精液の血液型を検査した場合、これがA型と判定されるために必要とされる請求人の最低限の精液量如何の点については、前記第一の4の(一)の新規証拠(上野鑑定書)によると、請求人の精液につき凝集阻止試験(同鑑定書の「吸収試験」とあるのは誤記と認める)を行なつた結果にもとづき、凝集素価一二八の抗A血清の一〇倍稀釈液(抗体12.8単位)0.2ミリリットルを用いた場合において、A型らしいとの判定が可能であるためには、0.025ミリリットル、確実にA型であると判定し得るためには、0.2ミリリットルの請求人の精液が必要であり、右条件のうち抗A血清を二〇倍稀釈液(抗体6.4単位)に変えた場合には、A型らしいとの判定が可能であるためには、0.006ミリリットル、確実にA型であると判定し得るためには、0.1ミリリットル必要であり、さらに抗A血清を六〇倍稀釈液(抗体二単位)に変えて、限度までテストの鋭敏度を高めた場合には、確実にA型と判定し得るためには、0.03ミリリットルが必要である、とされている。他方、前記第一の4の(二)の新規証拠(山沢鑑定書)によると、請求人の精液につき吸収試験を行なつた結果にもとづき、凝集素価八の抗A凝集素0.5ミリリットルを用いて、吸収試験を行なつたとき、ガラス板上で乾燥させた請求人の精液斑を二平方センチメートル(約二ミリグラム)以上を使用すると、精液斑の血液型は、非分泌型ではあるがA型かも知れないと判定され得るが、れそ以下の量を以つて検査したときには、精液斑の血液型は、O型か非分泌型らしいか、あるいは判定不能と結論されるに過ぎないとされている(精液の比重が1.020ないし1.040、乾燥重量がもとの一〇ないし二〇パーセントであること(書記官中道睦男の弘前大学教授村上利からの供述聴取報告書)から、右二ミリグラムの精液斑は、約0.01ないし0.02ミリリットルの精液量に相当する)。さらに同鑑定書においては、凝集素価約八〇倍の抗A凝集素の二〇倍稀釈液(抗体四単位)0.4ミリリットルを用いて、検査したとき、別紙四の赤石鑑定書と同じ検査成績を得るのに必要とする米谷四郎の精液斑は、双方の抗血清の性状に大差がないとして考えると、四平方センチメートル(約四ミリグラム)の量(註・約0.02ないし0.04ミリリットルの精液量に相当(前記書記官中道睦男の供述聴取報告書))を必要とするとの実験結果が示されている。

ところで、(凝集素)吸収試験では、使用される凝集素(血清)と等量の検査資料(抗原)含有液が用いられるのが通例であり、また凝集素(血清)の能力(凝集能力)は、その中に含まれる抗体の単位数により測定されている(前記2の後半括弧中に掲記の各証拠)から、右の各試験において凝集素を吸収(凝集作用を阻止)するのに必要とされる抗原(精液、唾液に含まれる)の量は、使用される血清の量および血清に含まれる抗体の単位数にほぼ比例すると判断することが可能であり、現にかかる判断を前提としたものと考えられる試験結果の評価がなされている(右上野鑑定書・取寄記録東京高裁記録二冊目二九四丁、鑑定人古田莞爾作成の鑑定書・取寄記録東京高裁記録三冊目七九五丁以下)ので、この判断基準を援用して、右上野、山沢両鑑定の結果を、前記赤石鑑定におけると同様の抗体四単位の凝集素(血清)を使用し、その量を0.2ミリリットル(右赤右鑑定では凝集素の使用量が明確でないので便宜上右上野鑑定における使用量で統一する)としたものに換算すると、右の各鑑定で示されている請求人の精液の必要量は、右上野鑑定で、抗体12.8単位の凝集素0.2ミリリットルを用いたものについては、前記数値の約三分の一()の量で足り、抗体6.4単位の凝集素0.2ミリリットルを用いたものについては、前記の数値の約三分の二()の量で足りることとなる。また右山沢鑑定で、抗体八単位の凝集素0.5ミリリットルを用いたものについては、前記の数値の約五分の一()の量で足り、抗体四単位の凝集素0.4ミリリットルを用いたものについては、前記数値の約二分の一()の量で足りることとなる。

(二)  つぎに、本件犯行現場に遺留の精液量如何の点を検討するに、

(1) 右、精液量を直接伝える資料として、鑑定人赤石英の作成にかかる鑑定書二通(別紙四および五)および同人の証言(取寄記録の東京高裁第二冊目四九六丁以下)が存するところ右両鑑定書によると被害者の身体付着分について、「恥骨縫合上縁部(註・下腹部)には、約二倍拇指頭大の広さに渉り、乾燥せる粘液様物質が薄く附着して居り、その表面は光をよく反射し、輝いている。これはメスで容易に剥離することが出来る。」および「陰阜には、約4.5乃至5.0センチメートル長、黒褐色の陰毛が稍疎生している。陰毛は、前述5胸腹部の項(註・右の記載を指す)において述べたと同様なる粘液様物質によつて、処々に於て固着している。」(別紙四の鑑定書中胸腹部および外陰部についての外部検査の項)との状況が報告され、また、着衣(腰巻)附着分については、毛糸腰巻(ミヤコ)に付着分について、紫外線検査の際、二個所が「約拇指頭面大の広さに渉り螢光を発した」との状況が報告されているが、毛布製腰巻(後記赤石鑑定書では「毛腰巻(格子模様)」と表示のもの)に附着分については、紫外線検査の際、三個所が螢光を発したとの記載があるだけで、その量を推測させる事項の記載はない(別紙五の鑑定書)。また、右赤石証言は、「恥骨縫合上縁部には約二倍拇指頭大の広さということでございますけれども、これは薄く附着しておるということを断つてございますので、量としてはわずかであつたんじやないかと思います。それであとの毛糸腰巻(註・前記毛布製腰巻を指す)と陰毛は、これは微々たるものだつたろうと思いますが、ミヤコ腰巻では約拇指頭面大の広さのものが二個所とありますけれども、実は面積は大体表現されておりますけれども、厚さがわからんのでございますので、その量的にどうなんだと言われてもはつきり申し上げられませんけれども、まあ全体の量としますとそんなに多いものではなかつたんじやないか」というものである。右の各証拠だけをみると、本件遺留精液斑の量は、確定できないながら、これが格別多いものではなかつたかのようにみえる。

(2) しかしながら、本件被害者の死体を検案した前記荻原清澄医師作成の屍体検案書(取寄記録二の一 七二丁には、「陰部汚染され精液様臭気の粘液物乾燥附着し光沢あり膣部は湿潤し両大腿部根部及恥骨部の陰毛は粘液物質にて皮膚に附着しあり」とされ、さらに同医師は、証人として、この点に関し、「陰部を見た場合、普通、婦女子の下りものだけでは濡れるわけではないのに、陰部全般が湿潤で光沢があり、布団をめくつたとき精液臭がしていました」と供述(第一審の同証人に対する証人尋問調書・取寄記録二の一 二四五丁)し、また、右被害者の屍体の下半身に付着の物質を見た警察官も、その場でこれが精液ではないかと判断している(乙野の被告事件での証人工藤良男、同三浦泳作に対する各尋問調書・取寄記録一の二 一九九丁、二六四丁))ところからすれば、赤石鑑定人の証言にあるところとは逆に、恥骨縫合上縁部に付着分と同量あるいはそれ以上の量の精液が外陰部に付着していたのではないか、と考えられるのである(なお荻原医師は、前判示のとおり、綿球を用いて、膣液を採取しているが、右外陰部および下腹部の精液付着状況(下腹部に付着の精液は、前記実況見分当時、小豆ぐらいの大きさで、二個所くらいぽつんぽつんと付着していた(乙野の被告事件での証人工藤良男に対する証人尋問調書・取寄記録一の二 一九九丁)ものであること)から推して、身体表面に付着の精液がその後拭き取られたことはないものと認められる。)。

(3) また、被害者の着衣(毛糸腰巻(ミヤコ)および毛布製腰巻)に付着分の精液斑の量をみるに、前判示(第二の四の1の(一)の(4))のとおり、被害者は毛布製腰巻と毛糸腰巻(ミヤコ)を重ね着していたところ、これが腹部までまくり上げられて姦淫の所作を受けたものであるが、右犯行現場の実況見分調書(取寄記録二の二 三八七丁以下)および第一審証人梅木良男に対する証人尋問調書(取寄記録二の一 一九四丁以下)によるど、被害者は、右二枚の腰巻を毛布製のものを下に、毛糸製(ミヤコ)のものを上に着用していたため、まくり上げられた際、反転して、毛布製のものが上に、毛糸製(ミヤコ)のものが下になる状態で重なつていたものであるが、右二枚の腰巻の精液斑の付着位置から考えると、前記下腹部に滴下付着したものと考えられる身体付着の二個所の精液斑と同様、その付近になお滴下した精液があり、これがまず毛布製腰巻に三個所付着し、そのうち二個所の付着精液が右毛布製腰巻に接着した毛糸製腰巻(ミヤコ)に付着し、そのため、右二枚の腰巻に付着した精液に著るしい濃淡の差を生じ、別紙五の鑑定書にあるとおり、毛布製腰巻付着分が毛糸製腰巻(ミヤコ)付着分に比して格段に強い凝集素吸収反応を示したものではないかと推測されるのである。この点について、前記のとおり、赤石証人は、毛布製腰巻と陰毛に付着した精液量は「微々たるもの」であつた旨を証言しているでのあるが、右陰毛付着分についての証言が前判示の屍体検案の際に認められた同部位の精液付着状況に照らして、とうてい正確な記憶にもとづくものとは考えられないし、さらに右毛布製腰巻付着の精液斑に対する同証人の前記鑑定書では、三個中の一個についてその検査成績が示されているだけにすぎず、したがつてもし、これが同証人の証言にあるように微々たる精液斑の検査成績とすれば、前判示とおりの約拇指面大にわたる毛糸製腰巻(ミヤコ)付着の精液斑の検査成績との対比上、両者の抗A凝集素吸収力にはさらに一段と大きな差があることを示したことになり、その原因の検討をすることなしに両者の同一性を肯定しがたいのではないか、と考えられる。同証人において、もとよりかかる検討がなされた形跡はなく、右両腰巻付着の精液斑相互の間の同一性が格別の疑問もなく肯定されている(控訴審の同二八年七月二五日公判調書中の証人赤石英の供述部分・取寄記録二の二 一〇四丁以下)ところよりすれば、右両腰巻付着の精液斑相互間には、右検査成績の差異に相応する精液量の差異があつたものと推認しうるものと考える。

(4) 結局、本件被害者の身体およびその着衣に遺留された精液斑の量は、前記赤石鑑定書に右量に関連する事項の記載を欠く毛布製腰巻付着分についてはもとより、その余の分についても、これを概略的なものにせよ数値をもつて確定することは困難であるが、前記(2)および(3)に判示したところから明らかなとおり、毛糸製腰巻(ミヤコ)付着分を除き、到底微量ということはできず、また、前記の右精液斑の付着状況をも考え併せると、その個々の付着部分に、男性性器から直接射出されないし滴下した精液の少なくとも一滴程度の量は、優にあつたものとみてよいであろう。そして、その一滴の精液量が毛細ピペットから滴下する一滴の精液量である0.04ミリリットル(このことは、本新規証拠第一の4の(一)の上野鑑定書により明らかである。)を下廻ることのないことは、一般経験則に照らして異論のないところと考えられる。

(三)(1)  ところで、前記請求人の精液からその血液型を判定しうる可能性の程度についての実験結果にもとづき、本件新規証拠第一の4の(一)の上野鑑定書では、「甲野四郎の精液が実際の事案における如く極めて少量にしか存在しないか、あるいはその他の人の体液と混在して発見される場合にあつては、これを普通常用の吸収試験法によりA型と判定される場合はむしろまれであろうと考える。」との鑑定主文が示され、また、本件新規証拠第一の4の(二)の山沢鑑定書では、「甲野四郎の精液および唾液からA型と判定することは不可能ではないが、分泌型の人に比して非常に困難である。」との鑑定主文が示され、この両鑑定主文だけをみる限りにおいては、本件遺留精液斑が請求人のものである可能性は否定できないとはいえ、右可能性の程度はかなり低いものと認めなければならないもののようにみえる。

(2)  しかしながら、右の各鑑定主文に至る説明として、右上野鑑定書では、「実際の事案における如き少量の精液斑の場合にあつてはその検査(註・前記赤石鑑定書におけると同様の凝集素吸収試験による検査)からこれをA型と判定することは極めて容易であるとすることは妥当ではないと考える。若しある実際事案においてその精液斑が何の問題もなく簡単に「A型」と判定されたとすれば、それはむしろ甲野に由来する精液でない可能性の方が大であるとしなければならぬ。これは精液が他人の体液(例えば膣液その他)と混在している場合も同じことである。」と解説され、また右山沢鑑定書では、「甲野四郎の精液斑を用いて赤石鑑定の通りの成績を得るためには凝集素に加える精液斑の量は四平方センチメートル(約四ミリグラム)以上なくてはならない。赤石鑑定によると精液斑は恥骨縫合の上縁部に約二倍拇指頭大の広さに渉り薄く付着しており、又陰毛にも処々に固着していると記載されている。この二倍拇指頭大の面積は検査者により可成り差があるものであるが大略五平方センチメートル位であろう。従つて川村すなに認められた精液斑が甲野四郎のものとした場合にはその殆んど全量を用いなければ赤石鑑定の検査結果通りにならないこととなる。一般に精液斑、唾液斑に於て凝集素吸収試験を行う場合、凝集素に加える斑痕量はせいぜい多くても一ミリグラム前後(精液斑の面積にしては一一平方センチメートル位)である。一度に四〜五ミリグラム(本件の場合略全量に当る)を使用することは再検査の必要もあるためにも行なわないのが普通である。そして一ミリグラム前後の使用量では甲野四郎の精液ではA型とは判定困難である。一方抗血清によつて抗A、抗B凝集素の吸着され易さに難易があり、赤石鑑定人が使つた抗血清との吸着され易さを比べることはむずかしい。これ等の点から推定するに赤石鑑定の精液斑は甲野四郎の精液斑であつても差支えないが、その可能性は低そうに思われる。」と解説されているのであつて、このことから、右両鑑定主文は、いずれも、本件遺留精液斑の量を、さきに検討判示したところよりはかなり少な目にみた事実認識の上に立つて導き出されたものであることが知られる。すなわち、前記赤石鑑定書における遺留精液斑の検査では、前判示の被害者の下腹部および外陰部に付着の乾燥粘液(註・本件遺留精液斑)の双方が検査の対象とされている(別紙四の鑑定書の精液検査の項参照)のであるから、前判示のとおりの外陰部に付着の精液斑痕の推定量をも合わせると、かりに右赤石鑑定が約四ミリグラムの精液斑痕を吸収試験に用いたとしても(この点については、なお後に検討する。)、右は限られた一部であつて、もとより右山沢鑑定で指摘されているような再検査に支障を来す事情ではなかつたものと考えられるのであり、また、右上野鑑定書においては、その鑑定に参加した共同鑑定人に配布された請求人の精液量0.08ミリリットル(毛細ピペットで載物ガラス板上に滴下された二滴)をもつて、「精液の検査資料としては実際の案件ではなかなか遭邁することのないような大量である」旨説明(同鑑定書一八頁)されているところよりすれば、本件は、遺留精液斑の前判示の付着個所ないし付着状況の点を考慮に入れても、なお右上野鑑定書でいわれている大量の遺留精液斑を採取することのできた事案であつたものと認められるのである。

(3)  さらに、前記(二)の後半個所で判示したとおり、右上野、山沢両鑑定で示されたA型と判定するのに必要とされる請求人の精液の量は、前記赤石鑑定で使用されたものと同じ抗体価の血清0.2ミリリットルを用いた場合のそれに換算するとき、右両鑑定で示されている必要精液量の約三分の二から約五分の一の量で足りる計算となることを考え併せると、右両鑑定書で指摘されている本件遺留精液斑を請求人のものとみるに当つての困難は、さらに解消されることになる。

6  以上の次第によつて、本件新規証拠である右上野、山沢鑑定書は、本件遺留精液斑量(右両鑑定書の鑑定事項外)について、さきに判断したところを前提として評価すると、同鑑定書に記載の請求人の精液斑に対する検査結果それ自体の内容に徴し、本件遺留精液斑を請求人のものとみることと格別矛盾しないものと判断されるのである。したがつて右二個の本件新規証拠は、いずれも請求人の無実を裏付ける資料となりがたく、ともに明白性の要件を充すものとはいえない。なお、請求人の弁護人が当裁判所に提出した各書面(第一の冒頭に掲記のもの)中で、本件遺留精液斑からの血液型判定に関して言及した各資料のいずれについても、右遺留精液斑を請求人のものとみることと矛盾する内容のものは存しない。

七、共同墓地からの犯人目撃の能否(新規証拠第一の5関係)について

1  この点についての第一審判決およびこれを維持した控訴審判決の判断は、(一)本件犯行時刻は昭和二七年二月二五日の午後七時ころ(第一審判決)ないし同日午後六時五〇分ころ(控訴審判決(但し犯行終了時刻))である(二)右犯行時刻(直後)ころ被害者方付近の道路を同人方の方向から歩いてきた者が犯人である(三)前記柴田武良とその四名の家族は、右時刻ころ前判示の共同墓地内より右道路を被害者方の方向から歩行の請求人を目撃して同人であることを識別した、との事実認定の上に成り立つているとともに、当時右の識別が可能な、時間的、場所的条件下にあつた、との判断がその当然の前提となつているものと解されるところ、本件新規証拠第一の5(東京高等裁判所が乙野に対する控訴事件につき同四四年二月一七日施行の検証調書)は、右識別の条件に関するもので、同四四年二月一七日午後六時二〇分から同七時四〇分までの間において、前記柴田武良および柴田公人の指示により、共同墓地の入口から中へ11.51メートルおよびそれよりさらに4.25メートル入つた両地点から、右共同墓地入口に接する道路上の歩行者の識別の能否を実験したものである。右検証結果の概要は、同日午後六時二八分に開始した第一回目の歩行者について、その顔および衣服の色の識別は不能であるが、平服による歩行であるため、その姿勢あるいは挙動のシルエットによりようやく何人の歩行であるかが識別できた程度であり、その後の歩行については、歩行者に八寸(半てん)を頭から羽織らせて歩かせた場合はもとより、平服のままの場合でも、実験開始後間もない頃のものにおいて、すでに、シルエットによる人物の識別すらすこぶる困難となり、さらにその後になると、これがいずれも不能であつた、というものである。もつとも、右検証結果の評価に当つては、右検証調書に付記されている「本検証現場の、積雪があり、また付近に照明設備のない状況は、識別者の環境である積雪のない照明設備の完備した都会の状況とは極めて対照的であつた。従つて識別能力についても冬期間中積雪があり照明設備も完備されていない暗い環境に慣れている付近の住民の能力とは自からかなりの差異があるものと感じられた。」との指摘事項に対し十分の配慮をする必要があるものと考えられるのであるが、この点を考えに入れても、右検証結果に徴すると、右検証開始後間もない段階(右検証の実施要項からみて、一〇分以内のことと推認される)において、前記共同墓地内の地点から、約11.5メートルないし15.7メートル隔てた墓地入口付近の道路を歩行する人物やその着衣の色、種別を識別することは、付近住民の目をもつてしても、これが容易でない暗さであつたものと認められる。

2  ただ、右検証結果およびこれに対する評価を、前記昭和二七年二月二五日三歳の夜における柴田武良とその家族の目撃結果の確実性に対する判断資料とするためには、さらに少くとも次の(一)ないし(三)の各事項が考慮されなければならない。すなわち、

(一) まず、右検証当日と前記柴田武良らの目撃当日の日没時刻の差の点である。右検証に当つては、天象、気象、検証現場およびその付近の状況等、検証結果に影響を来たす可能性のある諸条件が慎重に検討され、これらが右柴田武良らの目撃当日におけるものと近似する日を選んで検証が実施されたのではあるけれども、なお、右検証当日(二月一七日)の日没時刻(午後五時〇三分)と右柴田武良らの目撃当日(二月二五日)のそれ(午後五時二一分)との間には、八日間の日のずれに伴う一八分間の差がある。しかして、右検証開始時刻、日没後一時間二五分経過の時点であつたが、右検証調書によると、その後検証作業の進行に伴う時間の経過とともに、暗さが刻々深まつて行つた状況が認められるので、その段階における時間の僅かな差も対象の識別に影響のあることが推認されるのである。右検証当日の検証の検証開始時刻の明るさおよびその後の明るさを、右柴田武良らの目撃当日の日没後一時間二五分を経過した二月二五日午後六時四六分の時点の明るさおよびその後の右と同一時間経過時点の明るさと比較するとき、冬至を過ぎ春分に向う時期の日没後の残光の消え具合についての公知の事実に照らし、もとより厳密には判定できないながら、他の条件が同一であるところでは、後者が前者よりも幾分明るく、対象の識別のうえで多少とも容易であつたのではないかと推測されること。

(二) つぎに、目撃者である柴田武良とその家族らの共同墓地内の位置の点である。右検証調書によると、右検証は前記のとおり検証当日柴田武良および柴田公人を立合人として、本件目撃当時における目撃者の共同墓地内の位置とその際の付近道路歩行者の位置の指示を求め、道路に接する共同墓地の入口から最も遠い位置にいた者としての柴田武良の位置(墓地入口から15.76メートル)および最も近い位置にいた者として柴田大八の位置(墓地入口から11.51メートル)を基準として、右両地点からの識別の能否を実験した。ところで、柴田武良とその家族の個々の者について、これらの者が右歩行者を目撃した位置とくにその距離関係は、請求人に対する前記第一審判決が採用の各証拠によつても必ずしも明確ではなく、単にこれらの者のうち柴田ふみの位置が目撃された歩行者の位置まで約15.2メートル(八間二尺)ないし15.8メートル(八間四尺)であり、柴田武良のそれが、右の数値より幾分多かつたことが認められるにとどまり、(前記第二の四の1の(六)の(5)および(6)参照)、またその控訴審における審理においても、検証および柴田武良に対する証人尋問により、右目撃時における武良と歩行者との間の距離が約15.2メートル(八間二尺)であつたことを確認する以上の資料は得られなかつた。しかしながら、捜査機関が柴田武良とその家族の者から、右共同暮地からの請求人目撃の事情を聴取するに至つたのは、前判示(第二の四の1の(一)の(2))の土地柄もあり、請求人に対する起訴後の段階であつた(前判示第二の四の1の(五)の(1))ところ、同人らが当初捜査官に対し、被害者方の方向から歩いてきた請求人を目撃した位置について、柴田武良およびその妻ふみは、いずれも同二七年五月九日住居地で司法警察員に対し、「墓に行き線香等を上げ、墓に上げた菓子を食べながら、村道の入口附近まで来たら被害者方の方から人が来た」旨を供述(取寄記録二の四 八六丁および九一丁以下)し、その翌一〇日右両名は、青森地方検察庁において検察官の取調べを受けたが、その際には、柴田武良は、「墓にお参りして菓子などを喰べているとき、私は何気なく通つて来た道路の方を見たところ、川村さん方の方から里村商店の方に、私から見れば急ぎ足で歩いている一人の男を見た。それで私は皆に『あれは誰だ』と云うと、皆が道路の方を見て、巌だとおもうが、誰かが『あれは雪のむこだ』と言つた」旨の供述(取寄記録二の四 九七丁)をし、柴田ふみは、「弟等と五人で墓参りが終り、道路の方に歩いて来たとき、川村すな宅の方から坂を下りて来た男があつた」旨の供述(取寄記録二の四 一〇二丁)をした。また、いずれも司法警察員の取調べに対し、柴田公人は、同月三一日「私達が墓所の出入口のところまで来たとき、川村すなの家の方から坂道を下り来る人があつた。一番後になつて来た武良が『誰だろ』と言つたら、一番先になつていた巌が『雪のむこだ』と言つた」旨の供述(取寄記録二の四 一〇九丁)をし、柴田巌は、同年六月一日「墓所から帰るとき私が一番先になり、皆でお菓子を喰べながら墓所の入口のところまで来たら、坂の上の方から雪のむこが歩いて来たのを見た」旨の供述(取寄記録二の四 一一三丁以下)をし、柴田大八は、同日、「墓からの帰りに墓所から出るときに雪のむこが坂の上の方から下りて来るのを見た」旨の供述(取寄記録二の四 一一九丁)をしている。これらの各証拠に徴すると、右の各目撃者のうち、柴田武良および柴田ふみの目撃地点は、右検証調書における各立会人の指示地点にほぼ見合うものと認められるけれども、その余の者の目撃地点は、いずれも右指示地点よりもかなり目撃された歩行者に近い、右共同墓地の出入口付近であつたものと認められるのである。すなわち、本件目撃者のうち柴田公人、柴田巌、柴田大八の三名は、右検証調書の検証の際における識別者の位置よりもはるかに識別が容易な位置にいたものと認められること。

(三) おわりに、目撃者の目撃時刻の点であるが、この点の吟味は、右検証調書の評価に当つて重要であることはもちろん、乙野春夫および請求人の各自供の信憑性を検討するうえにおいても関連する事実であるところ、関係各証拠を詳しく検討すると、請求人に対する前記第一審の判決および控訴審判決におけるこの点の判断にそのまま依拠しがたく、右目撃時刻は、右両判決における判断のものよりもかなり早かつたことが判明する。以下この点を説明をする。

(イ) 前記第一審判決(別紙一)では、この点の判断は、明示されていないけれども、控訴審判決(別紙二)においては、柴田武良とその家族が墓参のため、自宅を出たのが午後六時ごろ、共同墓地に到着したのが同六時一〇分ころ、共同墓地に居た時間が約四〇分間、歩行者を目撃したのが同六時五〇分ころ、と判断されている。しかし、関係各証拠によると、柴田の家族が自宅を出たのは午後六時過ぎごろ、共同墓地に到着したのが同六時一五分ないし二〇分ころ、共同墓地内に居た時間が約一五分ないし二〇分間、歩行者を目撃したのが同六時三〇分ころないし四〇分ころと認められる。すなわち、

(イ) (武良らの自宅出発時刻)柴田武良とその家族が自宅で夕食を始めたのは、ラジオの放送劇「さくらんぼ大将」の放送途中からで、食事の途中に右放送が終つたこと(第一審証人柴田武良、同柴田フミに対する各証人尋問調書・取寄記録二の一 二六一丁、同一六三丁)、右放送劇の放送時間が午後五時一五分から同三〇分までであつたこと(裁判官高橋雄一作成の電話聴取書・取寄記録二の二 八二丁)、以上の各事実と柴田公人および柴田武良の「墓参りに家を出たときはラジオは六時のニュースをやつていたころである」旨の供述(第一審での証人柴田公人に対する証人尋問調書・取寄記録二の一 一六七丁および柴田武良の司法警察員に対する同二七年五月九日付供述調書・取寄記録二の四 八五丁)を考え併せると、武良らの墓参のための自宅出発は、午後六時過ぎころというべきである。

(ロ) (武良らの共同墓地到着までの所要時間)柴田武良らは、自宅を出てから約四二五メートル(三町五三間五尺)の地点にある里村商店前に至り、武良は、その先約八六メートル(四七間二尺)の地点にある鎌田孝一方へ木魚を返えしに行つて引返えし、その間右里村商店で買物を済ませて同人の戻るのを待つていた四名の家族の者と落ち合つて、同商店前から約九三メートル(五一間一尺)の地点にある共同墓地に到着したものあるところ、この間の柴田武良の歩行距離は約六九〇メートル(六町一九間四尺)、その余の家族の者らのそれは約五一八メートル(四町四五間)で、その通常の徒歩所要時間は約七分ないし七分三〇秒である(第一審での証人柴田武良、柴田ふみに対する各証人尋問調書・取寄記録二の一 一五七丁以下、同一六二丁以下、控訴審での同二八年四月二日施行の検証調書・同記録二の二 六九丁以下)。ただ当時雪道で子供連れで歩いているため、武良が一人で歩いた区間を除外した区間の歩行には、ある程度余計な時間を費したものと考えられ、そのため通常の徒歩所要時間の一倍半ないし多くみても二倍を出ることはないと考えられるから、右区間の歩行に要した時間は、一〇分ないし一五分以内と見積ることができる。そして里村商店前と鎌田孝一方を往復した柴田武良単独の行程約一七二メートル(九四間四尺)の徒歩所要時間は、その距離からみて約二分と考えられ、同人が鎌田孝一方でとくに時間を費した形跡はない(前掲証人柴田武良に対する証人尋問調書、鎌田とめの司法警察員に対する供述調書・取寄記録二の四 一二三丁以上)から、武良の家族の者らが鎌田孝一方から戻る武良を待つた時間は、多くみても五分間を出ることはないものと考えられる。以上の次第で、武良とその家族が自宅を出てから共同墓地に到着するまでに要した時間は、一五分間から二〇分間以内のものと考えられ、右共同墓地到着時刻は、午後六時一五分ないし二〇分と認められるのである。もつとも、柴田ふみは、「里村商店で夫武良が来るのを約一〇分間待つた。自宅を出てから墓地まで着くのに約三五分間かかつた」旨を供述(第一審での証人柴田ふみに対する証人尋問調書・取寄記録二の一 一六三丁)しているけれども、同人が里村商店から共同墓地までの通常の徒歩による所要時間が一分間前後、前記雪道、子供連れの事情を考慮に入れても二分間以内と考えられる区間につき、徒歩で一〇分くらいかかる旨を供述(前記証人尋問調書・取寄記録二の一 一六三丁)していることと照らし合わせると、右の供述は、冬の夜道の歩きや人待ちの際に生ずる感覚的な時間の印象を述べたものと推認され、前記認定の妨げとなるものではない。

(ハ) (武良らの共同墓地内に居た時間)柴田武良は、「四〇分以上も共同墓地に居た。その間墓地前に供物をして、それを墓場で喰べたりした。」旨を供述(第一審での証人柴田武良に対する証人尋問調書・取寄記録二の七 一五七丁)し、この点で柴田ふみが「墓所前で一把の線香火をつけて立て、持つて行つた供物をし、それから一〇分くらいも鉦をたたいて、鉦を止めて五分くらいもその場に居り、それから供物の菓子を下げて皆に分けて食べている最中に人が通りかかつた」旨を供述(第一審での証人柴田ふみに対する証人尋問調書・取寄記録二の一 一六三丁)しているのと大巾な食いちがいを示している。しかし、右柴田武良の供述については、前判示のとおり同人がすでに請求人の犯行時刻が午後七時ころとして起訴された後の段階で、右起訴をした検察官の取調べを受け、それまでの捜査官の取調べに対しては、右墓地内にいた時間はもとより、請求人を目撃した時刻についての供述をしていなかつたのに、右検察官に対し、「その人の姿を見たのは、時計を持つていませんからはつきり申し上げかねますが、色々考えてみますと、午後七時前後ではないかと思うのであります」旨を述べ(柴田武良の検察官に対する同二七年五月一〇日付供述調書・取寄記録二の四 九八丁、なお同人の司法警察員に対する同年五月九日付供述調書・同記録八四丁以下参照)、その後、右検察官立会の前記証人尋問に際して、「当日墓地に着いたのは午後六時過ぎころである」旨証言(取寄記録二の一 一五七丁)し、これに引き続いて前記四〇分間滞在の証言をしていることに徴すると、この証言は、午後六時過ぎ頃墓地到着と同七時前後請求人目撃の両供述の辻つまを合わせたい気持から出たものではないかと疑われるのであり、現に同人がその後この点について、「物をあげて、あげた物を子供が食つて、それだけの時間しかなかつたのです。長くおつても三〇分まではおらなかつたと思います。寒い時ですから」と証言(乙野の事件での第一審裁判所の証人柴田武良に対する証人尋問調書・取寄記録一の二 六二丁)しているのであつて、右墓地内四〇分滞在をいう柴田武良の証言は、とうてい信用することができない。結局、柴田武良とその家族が共同墓地内に居た時間は、前記柴田ふみの証言にいう約一五分間とその前後の時間を併せたものとなるが、同証言により、供物は一個五円のいも菓子とパンで七個か八個であつたこと(取寄記録二の一 一六五丁)が知られるから、供えの準備と片付けに格別の時間を要しないものと考えられるので、この間一五分ないし多くとも二〇分をこえることはないものと認められるのである。

(2) 以上の認定の各事実を総合すると、柴田武良らの歩行者目撃の時刻は、午後六時三〇分ころないし同六時四〇分までの間となる。(なお、右歩行者を川村すな絞殺事件の真犯人で、犯行終了後の者とみる以上、犯行時刻は、右目撃時刻以前となる。そうすると、本件においては、右認定の当否を、被害者の死亡時刻の点から、さらには逆に乙野春夫および請求人の供述の信憑性の点からそれぞれ吟味することが必要である。当裁判所は、この点の検討を経て、右目撃時刻の判断が、そのまま維持できるものと認めたものであるが、便宜上、右検討の内容は、後に判示する乙野春夫および請求人の各自供の信憑性に対する判断中に示す(後記八の5の(二)の(5)、(6)こととする。)すなわち、柴田武良らの右歩行者目撃時刻は、日没後一時間〇九分ないし一時間一九分であり、前記検証当日の検証開始時刻と較べても、六分間ないし一六分間早い時点であつたこと。

3  以上の判断を前提として、本件新規証拠である前記東京高等裁判所の検証調書を検討すると、柴田武良とその家族の右目撃時における識別条件は、右検証における検証開始時のそれと比較しても、識別地点が柴田武良および柴田ふみの両名の関係で両者がほぼ同一であることを除くと、他のすべての点において、柴田武良らの目撃時の条件が識別容易のものということができる。しかし、右柴田武良らの識別の程度は、識別時刻および識別地点のいずれにおいても、右検証の枠外に出ているため、とうてい右検証結果から正確に推測することができない。ただ、右検証において、検証開始時点で、前認識別地点からでも、ある程度の識別が可能であつたことから推測すると、右柴田武良らの目撃時においては、これよりも一段と識別が容易であつたものと考えられる。すなわち、右検証調書の検証結果をもつて、右柴田武良らの目撃につき、対象の識別が不能ないし困難であつたことを裏付ける資料とするよりは、右識別が可能であつたことを推測させる資料としなければならないのである。

4  おもうに川村すな絞殺事件に関する両被告事件の公判審理およびその前段階の捜査を通じて、右柴田武良らの犯人目撃の点について、右目撃当日の午後七時ころの時点での対象識別の能否を厳密に解明しようとした最初のものが、本件新規証拠である東京高裁の検証調書であつたゆえんのものは、右柴田武良とその四名の家族による識別が、目撃時刻の点を除き疑問の余地の少ない明確なものであつたこと、前判示のとおり、捜査当局において右目撃者の存在を探知した時期が、北国の初夏の日照時間の長い季節であつたため、開係者に目撃当時の時刻と明暗度についての実感が薄れていたのではないかとおもわれることおよび積雪の深い厳寒期の特定日に、夜間、僻地で実施する検証以外に確認方法がないこと等の事情が重なつたところに求められよう。当裁判所は、前記2の(一)ないし(三)の考慮事項に徴し、右柴田武良らの目撃した前記日時の天象、気象(日の入り午後五時二二分、月の出午後六時九分、月令0.7にして四界積雪あり)に酷似する条件を備えた昭和四六年二月二六日(日の入り午後五時二三分、月の出午後六時三一分、月令0.7にして四界積雪あり)の午後六時から同七時過ぎまでの間、前記共同墓地内から右墓地前道路の歩行者に対する識別の能否とその程度を実験する検証を実施した。右検証では、各段階の視力を有する識別者(四名)が共同墓地の入口から内部に通ずる道路上にあつて、随時移動し、右墓地入口に接する道路を歩行する被識別者(識別者の事前認識に段階差のある者六名が三様の服装を着用)を識別できる地点(識別者と被識別者間の距離)と識別の手がかりを明らかにする方法を選定した。右検証の結果は、四名の識別者のその都度の識別の結果を一覧表にまとめたものとして作成されたところ、右一覧表から一義的な結論を抽き出すことはかなり困難な内容となつている。ただ被識別者が平服を着用した場合に限定すると、午後六時五分の歩行の際、すでに一〇メートル以内の地点でも姿以外の手がかりで識別できた者はなく、また識別できた距離は五、六メートルないし一〇メートル、同六時三一分の際には、これが二、三メートルから七メートル、同六時四六分と四七分の際には、いずれもこれが一メートルから三メートル、同七時一分と三分の際には、いずれもこれが二メートルから四メートル、同七時一〇分以降では、不能との結果が出ており、ここから、識別者の個人差と視力の明暗順応の影響が大であることおよび午後六時三〇分前後の段階では、暗さに慣れた環境の者にとつては、かなりの程度の識別が可能である、との判断を導き出すことが許されるであろうから、これをもつて右東京高裁の検証調書に対する前記の評価を裏付けるものということができる。

5  そうすると、右検証調書は、請求人が無実であることを立証するものではなく、逆にその有罪の事実を証するものにほかならず、したがつて、再審請求証拠として明白性の要件を具備しないものといわなければならない。

八乙野春夫および請求人の自白の信憑性(本件新規証拠第一の2の(一)ないし(四)、3の(一)および(二)の関係)について

1、乙野春夫の川村すな絞殺事件の真犯人が自分であるとする自供を記載ないし録取した書面および録音テープは、前判示のとおり前記第二の四の2の(三)の(3)の一覧表番号(1)ないし(13)(以下これをまとめて「乙野の自供証拠」ということがある。)であり、そのうち、番号(1)、(2)、(7)、(8)ないし(10)、(12)、(15)が前記本件各新規証拠(前第一の2の(一)ないし(四))とされているものであつて、自己の右犯行の動機、犯行時刻、殺害の方法、姦淫の態様、金員奪取のこと、犯跡隠蔽工作、犯行後他から目撃されたことおよび右自白の動機等の全部または一部についての供述をその内容としているものである。他方、請求人が右事件について、これを自己の犯行として自白し、その供述を録取したものとして前記第二の四の1の(三)の(4)の(ハ)ないし(ト)の各捜査官に対する供述調書(以下これをまとめて「請求人の自供証拠」ということがある。)があり、その供述事項は、右(ハ)ないし(チ)の各項目下に記載のとおりである。

そして、右乙野春夫の自供内容のうち、被害者に対する加害手段および姦淫に関する供述と被害者に存する損傷および姦淫の証跡との適合関係を解明するとともに、これを請求人の供述についての同様の適合関係と比較した各資料のうち、鑑定人赤石英作成の昭和四一年一二月一六日付鑑定書(以下「赤石新事件鑑定書」という。))、および同上野正吉作成の同四二年二月三日付鑑定書(以下「上野第一鑑定書」という。なお、同鑑定は、右の点のほか被害者の死亡時における食後経過時間をも鑑定事項としている。)が本件各新規証拠(第一の3の(一)および(二))とされているところ、この点についての資料には、このほか鑑定人上野正吉作成の同四七年一二月一〇日付鑑定書(イ)、同古田莞爾作成の同四五年二月六日付鑑定書(ロ)、証人赤石英に対して、東京地方裁判所が昭和四二年一〇月一二日なした証人尋問調書(ハ)、同証人に対して当裁判所が同四四年八月二八日なした証人尋問調書(ニ)、証人上野正吉の前記乙野春夫の被告事件の公判調書中同証人の供述部分(ホ)、同証人に対して当裁判所が同四四年一〇月二五日なした証人尋問調書(ヘ)、証人古田莞爾に対して当裁判所が同四七年一〇日五日なした証人尋問調書(ト)がある(以下、(イ)を「上野第三鑑定書」、(ロ)を「古田新事件鑑定書」、(ハ)を「赤石新事件証言」、(エ)を「赤石再審証言」、(ホ)を「上野新事件証言」、(ヘ)を「上野再審証言」、(ト)を「古田再審証言」という。)。以下右乙野の自供証拠中の本件新規証拠についての明白性の検討を、右乙野の自供証拠全体の信憑性の吟味の一環として右請求人の自供証拠の信憑性の吟味と併せて行なうが、これも新規証拠とされている前記赤石、上野両鑑定人の各鑑定書の明白性の検討との関係から、はじめに右乙野および請求人の各自供証拠の犯跡およびその他関係事実との適合性の判断をすること(この過程において、右の各鑑定書の明白性の判断を、適宜これと関連する前記(イ)ないし(ト)の各証拠についての判断と合わせて判断すること)を先行させて行なうこととする。

2  本件犯跡と乙野春夫および請求人の各自供証拠との関係

(一) 本件被害者の各創傷と各自供の犯行状況との関係

(1) 本件被害者の各創傷

鑑定人赤石英作成の昭和二七年三月一一日付鑑定書(別紙四)によると、本件被害者の各創傷は、顔面に三か所(同鑑定書の外部検査の項の(イ)、(ロ)、(ハ))、頸部に三か所(同(ニ)、(ホ)、(ヘ))、大胸筋部に一か所(同内部検査の項の(ト))、舌縁部に一か所(同(チ))の合計八か所(右(イ)ないし(チ)は鑑定主文3の(1)ないし(8)に対応する)に認められ、その各性状は、いずれも同鑑定書の当該個所に記載されているとおりである(以下、右の各創傷を、単に、「(イ)の創傷」の要領で記載する。)。

(2) 本件被害者の頸部(ニ)の創傷関係

(Ⅰ) 右頸部(ニ)の創傷は、別紙四の赤石鑑定書によると、被害者の死因である索条または索条様のものによる絞頸によつて生じた索溝であることが認められ、その特徴として、(a)前頸部から右側頸部にかけてだけであること、(b)ほぼ水平に走る帯状のものであり、上縁、下縁ともに比較的明瞭な境界線を形成していること(c)前頸部個所がごく軽く上方に凸湾していること(d)右凸湾部分がとくに強い痕跡(固く皮革様化し、暗赤褐色調が強く、その上面に粟粒大位の広さの剥離した上皮の小片が処々に残存付着している)を示していることを挙げることができる。

(Ⅱ) (イ)乙野春夫の供述する絞頸方法は、要するに、「長さ約一メートル(三尺位ともいう。)、巾約二五センチメートル(一尺位ともいう。)のネルのマフラーを、座つて針仕事中の被害者の後方から、その頸部にかけてそのまま両手を交叉させるように逆方向に引き被害者の肩先で両手を押えつけながら力一杯絞めた。」というものであり、この方法は、概ね前記各証拠について一貫している。(ロ)他方、請求人の供述する絞頸方法は、(甲)、「仰位の被害者の枕元の方に行き、付近にあつた紐の様なものをその首にかけ、後方より両手で引張つた」(司法警察員に対する昭和二七年三月四日付供述調書)というものと、(乙)、「仰位の被害者に対し、自分の体を被害者の体に覆せたうえ、両手をのばして被害者の着用していた着物の一番上の方の一枚の襟を被害者の口のすぐ下で両方より上に絞め上げた」(司法警察員に対する同月五日付、同月八日付、検察官に対する同月一七日付各供述調書)というものの二通りの方法である。

(Ⅲ) 本件新規証拠である赤石新事件鑑定書および上野第一鑑定書においては、その根拠とされるところは必ずしも同一ではないが、結論においては乙野春夫の供述する絞頸方法が請求人の供述するそれ(絞頸方法)よりもより適合するというのであり、前記赤石新事件証言、同再審証言、上野第三鑑定書、同新事件証言、同再審証言も、いずれもこの点では異るところがない。すなわち、

(a) 赤石新事件鑑定書(および同新事件証言、同再審証言)の要旨は、「乙野の供述する絞頸方法によると索条の牽引の方向は後梢下方に向つていると考えられるし、これが被害者の頸部の索痕から考えられる索条の牽引の方向および被害者の舌が挺出していなかつたこととよく適合する。また、乙野の供述するネルのマフラーような軟かく、巾の広い索条では、被害者の頸部にあるようなかなり著明な索痕が生じるとは考えがたいが、マフラーと皮膚との間に被害者が当時着用していた毛布製の上張りの襟が介在していたことを前提とすると、乙野の供述と被害者の屍体所見とは極めてよく合致する。他方、請求人の供述する絞頸方法のうち前記(甲)の方法については、索痕の性状および方向の点で、屍体所見と著しく食い違い、同(乙)の方法については、請求人がいう「口のすぐ下で絞め上げた」との点は、索痕の位置が甲状軟骨突起部の高さ(頸部の中央に近い高さ)であることと矛盾し、また請求人がいう「両方より上に絞め上げた」との点は、舌根部が挙上されて舌が歯列から挺出されているはずであるのに、これがみられないことと矛盾する。」というものであり、

(b) 上野第一鑑定書(および同第三鑑定書、同新事件証言、同再審証言)の要旨は、

「本件索溝の特徴(註、前記(1)に挙げたところから(c)を除外したもの)から、成傷用器としては、着衣の襟とするよりも、特定の紐類とした方が妥当であり、マフラーであつても引き絞つた際皮膚面との作用面が0.8ないし1.3センチメートル前後になるものならば成傷用器として可能である。また絞圧時に右成傷用器と皮膚面との相互のずれを必要とする。頸部に索条を一周させて巻きつけ、これを交叉して左右に引き絞つたとして引き絞る力が最大に加わるのは交叉部で、そこに表皮剥脱、革皮様化等の変化が甚しいが、これが項部である場合、絞頸後短時間内に索条が取り去られたときや手を持ちかえることなく、(手を交叉して)絞圧した場合には交叉部の特長を発見するのに容易ではない。乙野の供述する絞頸の方法がマフラーの両端を手で持つて作つた輪を被害者の首にかけ、この両手をすばやく被害者の頂部で左右に交叉させて、これを左右に押し出すようにすることと解釈し、この際加害者の左手はただ単にマフラーの端を握り、その握つた拳を被害者の背面又は右肩の辺に固定させておき、右手にはより強力な力を加えてマフラーを握つた拳を被害者の背面正中からその左肩又はこれを越えて更に外方に突き出すようにして絞頸を効果的に行なつた場合には、マフラーの右半においてのみマフラーと被害者の皮膚との間に移動擦過がおこり、ここに著明な表皮剥脱を形成する。また被害者の着衣の襟、その頭髪またはその手などがマフラーの下に入るかあるいはこれをつかむことができたとすれば、これによつて左側頸部に索溝の形成を見ないということも起り得る。以上のように考えることを前提として、乙野の供述は、本件被害者の頸部の索溝と一致する。他方、請求人の供述する絞頸方法のうち前記(甲)の方法については、索溝の経過が水平であること、索溝が右側頸部にのみ存すること、耳の後方部には左右とも索溝らしいものが見られないこと等の点で被害者にみられる索溝と合致しないものであり、同(乙)の方法については、このような方法では被害者にみられる上縁下縁ともに境界明瞭な規則正しい細長の索溝を作ることはできず、索溝も正中部では顎の直下に存すべきはずであるこれが存しないこと、襟をつかんだ加害者の両手拳の圧迫により生ずべき頸部器官の損傷の存しないこと等の点で、そのまますんなりと諒解できぬものを含んでいる。」

というものである。

(Ⅳ) 右の赤石新事件鑑定書等および上野第一鑑定書等の指摘事項のうち、前記請求人の供述した絞頸方法中(Ⅱ)の(ロ)の(甲)の方法が被害者にみられた索溝と合致しないとの点について、これが正当であることは、明瞭である。ただ、請求人が供述した前記(Ⅱ)の(ロ)の(乙)の絞頸方法を前記乙野が供述した絞頸方法と比較するとき、右の各証拠が指摘するとおり後者がより現実の犯跡に適合する、とするには、次のような各疑問が存する。

(イ) 赤石新事件鑑定書等の関係では、まず、乙野の供述の適合性の根拠とされている索条の索引方向の点が、同鑑定人自身、別紙四の鑑定書において、右(ニ)の索溝が「略水平なもの」としており、右索溝に認められる前判示の凸湾の形状も軽度のもので、索条の牽引方向を推測させるほどのものとはいえない(上野再審証言および古田再審証言)のであり、またいま一つの根拠とされている舌の挺出の点が、別紙四の赤石鑑定書により被害者の古縁部に認められた前記(チ)の創傷から、これがなかつたとはいえない(上野第一鑑定書、古田再審証言)のであり、さらに、「マフラーによる後方からの絞頸方法」の点については、さきに同鑑定人が右(ニ)の索溝の成因との関係において、「咽喉の部分に最も力が加わり、後の方で索条が交叉することはない」と述べて、後方からの索条による絞頸の可能性を明確に否定していたのである。以上の諸点を考えると、乙野の供述の前記適合性は、根拠薄弱のものといわざるをえない。

つぎに、請求人の供述の不適合性の根拠とされているもののうち、舌の挺出がないとする点が根拠のないこと前判示のとおりであり、また索溝の位置関係が異るという点については、字義どおり厳密にいえば、「口のすぐ下」と「甲状軟骨突起部の高さ」とでは一致しないといいうるけれども、請求人がいう被害者の「口のすぐ下で絞めた」という供述が頸部の中央部を否定する趣旨であるとはとうてい受け取れないから、この点についても根拠を欠くものと評価せざるをえない。

(ロ) 上野第一鑑定書の関係では、まず乙野の供述する成傷用器の点については、前記赤石、古田両鑑定人が、ともに右(ニ)の索溝の性状が索条の面が粗なものにより圧迫擦過して生じたもので、乙野の供述にいうネルのマフラーのような粗でない物では生じがたいとしていること(前記赤石新事件鑑定書、同新事件証言、同再審証言、古田新事件鑑定書、同再審証言)、とくに、赤石鑑定人が前判示のとおり、被害者の屍体解剖担当者として、死因に結びつく右(ニ)の索溝を直接観察して専門的知見により詳しく検討した唯一の人物であることおよび同人が右検討の結果、第一審の公判廷で表面の毛が抜けて粗の性状を示していた被害者の上張りの襟による襟絞め方法の可能性を肯定する証言をしたこと(前判示第二の四の1の(六)の(3)参照)を考え併せると、直接ネルのマフラーで右(ニ)の索溝が生じたとすることには疑問がある。また、乙野が供述する加害方法の点については、右乙野の供述によれば、被害者の背後でマフラーを交叉させたというのであるから、その交叉部分が最も力の加わる部分であるはずなのに、この部分に索溝があつたという形跡がない。ただこの点は、上野再審証言にあるように、前頸部の方が後部より皮膚が柔いため、前頸部にのみ索溝が残存しているということがいえるにしても、前判示のとおり右(ニ)の索溝の側頸部分が、前記軽度の凸湾形状を示している部分よりも、格段に弱い痕跡しか残していないのであつて、このように、最も力が加わつたはずの部分(交叉部分)に近い部分が逆に遠い部分よりも格段に弱い痕跡を示しているということは、むしろ右乙野の供述する絞頸方法の右索溝との不適合を示すものといえよう。つぎに請求人の供述について、成傷用器(着物の襟)の不適合をいう点は、すでに乙野の供述する成傷用器の適合性の点で検討したところで示した理由により、右(ニ)の創傷の成傷用器として被害者の上張りの襟による襟絞めの方法が不適当であるとすることはできない。なお上野第三鑑定書では、(ヘ)の創傷(左側頸部の爪痕)との関係で、「これが被害者の手による防衛損傷によるものとすれば、これは兇器がマフラーの場合にはつくり得るが、被害者の着衣の襟である場合には絶対につくり得ないものである。」として、これが請求人の供述する絞頸用器と絞頸方法の最大の欠陥で致命的なものとされているようである(同鑑定書五五頁以下)。右判断の前提は、(ヘ)の創傷がその位置からみて絞頸用器の下をくぐつてつけられたものではなく、これをとび越えてつけられたものとみることに置かれているところ、右の前提それ自体は、至当な推測として首肯できるところである。しかしながら、加害者の被害者に対する襟絞めの攻撃が着手後直ちに完全有効に成立し、これが被害者の抵抗喪失時点までそのまま維持されたものであることを前提としないかぎり、右上野鑑定書の判断は成立しないものと考えられるところ、本件で被害者が老令の女性であり、加害者が屈強の男子であることを考慮に入れても、右前提への例外を許さない即時かつ完全な攻撃が常になされ得るものとは考えがたいところである。したがつて、右鑑定書の判断を、そのまま採用することはできず、他に、請求人の加害方法の不適合とされている点は、いずれもこれが証跡と不適合とまで言いうるかどうかに疑問のある、乙野春夫および請求人の各供述の信憑性判断のうえでさして重要でない事項についてのものにすぎない。

(3) 本件被害者の頸部(ニ)の創傷以外の関係

(Ⅰ) 本件被害者の頸部(ニ)以外の創傷は前記(一)の(1)のとおり七か所にわたり存在するが、このうち乙野春夫および請求人の前記各供述の信憑性を検討するうえで、創傷の特色からみて、とりわけ重要とおもわれる(ト)の創傷は、別紙四の赤石鑑定書、現場写真記録(当裁判所昭和四五年押第二三号の一二)、前記赤石新事件証言、同再審証言によると、右鑑定書に記載のとおりの形状であるほか、全長約一三センチメートルの線状出血は連続し、中途での絶断個所のないことの特徴を付加することができる。また右創傷の成因との関係で問題となる前判示のとおり本件犯行現場の被害者方の寝室の隣室である四畳半の居間に認められた針箱(前記第二の四の1の(4)当裁判所昭和四五年押第二三号の四)は、厚さ0.7センチメートル(以下同じ)の板で作られたたて24.3、よこ18.2、高さ6.8のふたに、たて22.5、よこ16.5、高さ6.4の中味を重ねた木製の箱である。

(Ⅱ) 乙野が供述する右の各創傷と関係するとおもわれる同人および被害者の挙動は、要するに、「針仕事中の被害者に対し、その後方から絞めつけながら、左側の針箱の方向に倒した。」、「うつ伏せに倒れた被害者を絞めつけたので、その前額部が畳にこすれた。」、「被害者は、絞めつけられた際、針仕事中の手を離して首の両側に手をあて、もがいた。」というものである。請求人が供述する右の点についての同人および被害者の挙動の要旨は、前記第二の四の1の(六)の(9)および(10)に判示のとおりであるが、これをさらに「右手拳で被害者の胸を一回(余り強くなく)押した(あるいは、どんと突いた)」、「被害者の胸を突き転がしたとき、頭か顔をどこかにぶつけたような気がする」、「あばれる被害者を抱きかかえて運ぶ途中、顔だか頭だか障子の木のところにぶつけたようだ」、「左手で被害者の首にしがみつき、自分の顔を被害者の顔の横に落し」、「両手を被害者の首に巻いた」というものである。

(Ⅲ) 赤石新事件鑑定書および上野第一鑑定書においては、乙野および請求人の各供述中成傷可能と考えられる加害手段の全てと、右の各創傷との適合性が逐一検討され、その各個の具体的説明内容は、必ずしも同一ではないが、結論として乙野の供述する加害手段については、そのままで、またはある一定の条件を付加して考えると、いずれも右の各創傷の原因として適合するのに反し、請求人の供述する加害手段については、右の各創傷の原因として適合しないかまたは適合困難なものが少なからずあり、全体として、乙野春夫の供述内容の方が、請求人のそれよりも、右の各証跡に適合する、というものであり、前記赤石新事件証言、同再審証言、上野第三鑑定書、同新事件証言、同再審証言も、いずれもこの点では異なるところがない。以下右の各創傷のうち特色が顕著な(ト)の創傷を中心にして検討する。

(a) 赤石新事件鑑定書(および同新事件証言、同再審証言)の要旨は、「(ト)の創傷は、右第二肋骨の走向と略一致しているとはいえ、かなり直接的である。しかもこの出血の強さは右端部に近い一部分を除き、ほとんど同じ程度の強さであるから、請求人が供述するような、狭範囲の局所的、単発的外力作用では生じえないものと考えられる。右(ト)の創傷のような長さ一三センチメートルの直線的な出血を来す成傷器は、少なくともそれだけの長さを有する直線的稜角のある鈍体でなければならない。したがつて、(ト)の創傷が請求人の供述するような「右手拳で押した」あるいは「右手拳で突いた」ことによつて生じたものとは考えられない。他方、乙野春夫の供述は、「被害者を左側の針箱の方向に倒した」というのであるから、左側に倒されたとき右肩が前に出るようにして倒れたとすれば、また針箱の稜角に右上胸部を衝突したとすれば、右(ト)の創傷はよく説明されるものと考える。また被害者の右眉毛上部の(イ)の創傷の形状、性格からみて、右針箱の一方の辺縁によつて右(ト)の創傷を生じ、同時に対応辺によつて右(イ)の創傷をも生じた可能性が十分考えられる。」というものである。

(b) 上野第一鑑定書(および同新事件証言、同再審証言)の要旨は、「(ト)の創傷については、本件被害者のように即死とみられる死においては、受傷後の血液浸潤も高度とは考えられないので、右創傷の出血部の長さと巾からみて、この部分に作用した兇器は細長の作用面をもつ鈍体であることを示す。しかも被害者がかなり厚着をしていた状態での受傷ということを考えると、右鈍器はかなりの硬度を有すべきはずである。この意味で請求人が供述する右手拳による打撃の点は、その作用面の持つ巾、硬度の点で不適格である。右手拳での打撃で(ト)の創傷を作ることは絶体不可能ではないにしても、やや不適当である。他方乙野の供述は、絞頸の際被害者を「左側に倒した」という点を、「右側に倒した」と変更するならば、この際被害者が顔面の(イ)、(ロ)、(ハ)の各創傷と(ト)の創傷が生じ、このうち(イ)と(ト)の各創傷が針箱の稜の一部と衝突擦過して生じたものとして、よく合致する。」というものである。

(Ⅳ) 右(ト)の創傷が、上野第一鑑定書に指摘されているように右創傷の出血部に細長の作用面を持つ鈍体が作用したものであることが確定されるならば、請求人が供述する手拳よりも、右赤石、上野両鑑定書にいう針箱の稜が、成傷器としてより適当であることは明らかである。しかし、別紙四の鑑定書にあるとおり、赤石鑑定人は、被害者の屍体を解剖して、直接この筋肉内出血を確認したうえ、「該部に鈍体が作用したため生じた出血が、筋繊維束間を通り、約一三センチメートルの長さに達したもの」と判断したものであり、この判断によると、請求人の供述が正しく適合しているのである。赤石鑑定人は、その後、前記赤石新事件鑑定書で右当初の判断を変更し、その理由として、同鑑定人から「新鑑定(註・昭和四一年一一月二七日受嘱託)にあたつて、事件当時警察で撮影した写真を改めて見ると、血液の所在個所の巾(約0.5センチメートル)がほとんで同じで途中で中断しているとみられるから、その全血液所在個所と同じ長さの鈍体が衝突したのが正しく、従前の見解は誤りである」旨の説明がなされている(赤石新事件証言、同再審証言)のであるが、ただ、それだけの事実なら、屍体解剖の執刀医として、右創傷の原因判定の必要もあるから、見落しが生ずることは理解しがたいところである。のみならず、同鑑定人が指摘の警察写真は、問題の個所が極めて不鮮明な複製写真(取寄記録二の二 四一六丁裏)であり、原写真(前掲現場写真記録写真第二〇)と比較すると線状の出血部分に中断個所があるとは認めがたい。したがつて、同鑑定人の右説明だけでは、意見変更(事実に対する評価の変更にとどまらず、事実(創傷の形状)認定の変更にわたる)の理由として乏しいのではないか、と考えられるとともに、同鑑定人の前記当初の鑑定が誤りであるとは、必ずしもいいがたいのではないか、とも考えられる。ただ、さきに指摘したとおりの、捜査段階における本件遣留精液斑からの血液型判定をめぐる疑惑(前記第二の六の4 とも関連して、同鑑定人の右(ト)の創傷め形状およびその成因に対する当初の判断に、何がしかの誤りがし生じたとみられる余地がないとはいえない。もしそうだとすれば、その限度で右赤石新事件鑑定書で指摘されているように、手拳で被害者の胸部を押した、または突いた、という部分的、単発的衝撃によつては(ト)の創傷が生じない、と断定できるかどうかは別としても、このような衝撃が右創傷によく適合するとはいえないことは、上野第一鑑定書、古田新事件鑑定書をまつまでもなく、明らかであろう。そして右上野鑑定書では、その適合性が全く否定されているわけではなく、やや不適当である、とされているにとどまる。

他方、右赤石、上野両鑑定書で説明されている(ト)および(イ)の各創傷の発生次第は、その仮定が承認できるかぎりでは、合理的であり、説得力に豊んでいることは確かであるが、いずれも乙野の供述には現われていない情況を想定し、さらには乙野の供述を思いちがいとみることを仮定した下での説明でしかない。

(4) 以上、被害者に認められた前記各創傷のうち、特徴が顕著で乙野および請求人の供述の信憑性判断と密接に関連するとおもわれる前記(ニ)および(ト)の各創傷およびこれらの創傷の成因と関連する創傷について検討した結果、右(ニ)関係の創傷について、請求人の自供した二様の方法中、前記(甲)の絞頸方法が不適当であることは明白であるが、他方の(乙)の用器、用法をはじめ、その余の請求人が供述する加害方法および乙野が供述する加害方法について、絶対にとはいえないまでも、高度の蓋然性をもつて、前記被害者に認められた各創傷との関係で、不適合と断じうるものはなく、一見不適合とみえる加害方法も、本件証拠とさして矛盾しない条件を仮定するときには、適合性を回復するのであり、そのそれぞれの説明があながち牽強付会のものといえないことは、前記判断に掲記した各鑑定書および右鑑定書作成者の各証言に照らして明らかである。また、右に判示しなかつたその余の創傷の関係においても、これとほぼ同様の判断を持ち得るのである。そして、本件審理の必要性との関係では、以上の程度の判断をもつて十分足りるものと考える。

(二) 本件被害者の姦淫の証跡と各自供証拠

(1) 本件被害者の姦淫の証跡

別紙四および五の各赤石鑑定書によると、前判示のとおり本件被害者の下腹部(恥骨縫合上縁部)、外陰部および被害者の着衣である毛糸腰巻(ミヤコ)、毛布製腰巻(格子模様)にはいずれも、血液型がA型と判定された精液が附着していたこと、被害者の膣上部から「少許の」の汚灰白色の粘液が採取されたが、その中には精子が発見されず、また、被害者の屍体付近で発見された白ネル腰巻には精液の附着が認められず、日本手拭には血液型B型の精液以外の分泌物が附着しており、放射線状に四条のしわのあつたことが認められる。

(2) 姦淫の証跡と乙野および請求人の各自供証拠

(Ⅰ) 右姦淫の証跡の点について、乙野の自供証拠は、要するに、姦淫の行為として、(甲)「陰茎を出し、馬乗りになつて叙母の陰部に入れようと思つたところ、陰茎にさわった時に射精してしまつた」旨をいうものと(乙)「そのとき入れたことは入れたと思うが、精液まで入れたか入れないか、それはわからない」、「中にも精液が入つたと思つた」旨をいう二通りのものと、事後の処置として、「叔母を締めたマフラーで陰部の辺についた自分の精液をふき、それからその付近の畳の上にあつた古い日本手拭で精液がついたところと陰部の辺をすつかりふいて、日本手拭をその辺に置いた。」、「日本手拭でふいた方法は、陰部の入口の方まで日本手拭を長さ一寸位丸めるようにして、中に差し込んでふき取つた。」というものであり、請求人のそれは、姦淫の行為として、(甲)前記第二の四の1の(六)の(9)および(10)のとおりの膣内射精をいうものと、(乙)「二、三回抜けた時も気分が出てたらしてあつたような記憶がある」旨(司法警察員に対する同二七年三月五日付供述調書・取寄記録二の二 四四七丁以下)をいう二通りのものであり、事後の処置として「附近にあつた布切れのようなもので金玉(註・陰茎の意味)をふいた」というものである。

(Ⅱ) この点に関する赤石新事件鑑定および上野第一鑑定書は、ともに右乙野の供述する姦淫の方法および事後の処置は、いずれも犯跡に適合するが、請求人の供述するそれらは、いずれも適合しないというものである。

(Ⅲ)(イ) 右赤石、上野両鑑定書に示されている乙野の供述と適合する姦淫の行為についての判断の根拠は、被害者が腟外射精を受けているけれども、腟内射精を受けていない、との事実判断である。したがつて右両鑑定書のこの点についての判断は、前記乙野および請求人の各姦淫の行為についての(甲)、(乙)両様の供述中、(甲)のみに妥当するものである。ただその限度では、本件被害者が腟内射精を受けていないものと認められるならば、右両鑑定書の判断は、正当なものといわなければならない。ところで、本件において、前判示のとおり、赤石鑑定人の別紙四の鑑定書の屍体解剖をた際、被害者の腟内から粘液を採取し、これを検査した結果、精子を認めなかつたことと請求人が無精子者でないこと(上野第二鑑定書により明らか)を考えると、本件被害者が腟内射精を受けていなかつたものとみられる程度は、かなり高いものと考えられる(現に、請求人に対する第一審判決は、請求人の腟内射精をいう供述部分を排斥したうえ、姦淫自体を認定しなかつた、)ただ、これも前判示のとおり、赤石鑑定人の右屍体解剖前に綿球三、四個を用いて、被害者の腟内容物を採取した事実があること、(残溜分が「少許」であつたこと)請求人の供述する同人の姦淫方法が腟内射精とはいえ、腟外にも射精していることが窺える供述もあることから、必ずしも請求人の一回の射精量の全量が一旦被害者の腟内に貯溜したともいえないことおよび赤石鑑定人の解剖検査時刻が被害者の死亡後少くとも四〇時間以上、荻原医師の腟内容の採取時からでも一二時間以上を経過していることなどを考え併せると、腟内に残溜の「少許」とされた粘液中に精子が発見されなかつたことがある以上、有罪の認定として、有精子者の腟内射精の事実を肯認することは許されないと考えるけれども、その一事のゆえに、右腟内射精のある程度の可能性までも否定することは、行き過ぎであると考えられ、現に古田再審証言は、類似の実例を挙げて、右の可能性を肯定している。

また、前述のとおり、乙野および請求人の各供述中、(乙)に関係するものは、右(甲)とは逆に乙野において腟内射精の、請求人において腟外射精のそれぞれの可能性のあることをいうものであるから、その限度では、前記請求人の(甲)の自供証拠について判断したところが、乙野の(乙)の自供証拠に対してあてはまるのである。

そうすると、乙野および請求人の姦淫の行為についての各自供証拠を、それぞれ一様にみて、前者が犯跡に適合し後者が適合しないものと判断し去つている右赤石、上野両鑑定書には、二重の意味において、疑問があるといわなければならない。

つぎに、姦淫の事後の処置に関し、右赤石鑑定書においては、前記乙野の自供証拠が日本手拭にしわがあり、これに被害者の血液型と同じB型の分泌物しか附着していない状態に符合する、とされ、右赤石、上野両鑑定書とも、この日本手拭に精液の附着が認められなくても、それは、乙野が供述するとおり、被害者の陰部をまずマフラーで拭いたため、精液が全部拭きとられていたことが考えられるから、矛盾しないと説明されている。たしかに右日本手拭のしわの状態とこれに附着分泌物(B型)の存在は、右乙野の自供証拠によく適合しているものと考えられる。しかしながら、前判示のとおり、被害者の外陰部には、被害者発見当時はもとより、屍体解剖の段階でも、かなりの精液が附着していたのであるから、マフラーですつかり拭きとつたとはいえないことは明瞭で、同部位を拭いたとする日本手拭に精液の附着が認められないことは、請求人が供述する「自己の陰茎を付近の布切れ様のもので拭きとつた」というその布切れ様のものが見当らないことが右自供証拠に適合しないことと同様、あるいはそれ以上に乙野の自供証拠が証跡に適合しない面のあることを示すものといえる。

(Ⅳ) 以上の点を総合して、乙野および請求人のそれぞれの姦淫に関する自供証拠を全体的に評価するとき、乙野の自供証拠の方が請求人のそれより多少適合度が高いとは云えるかも知れないが、程度の差でしかなく、この点についての前記赤石、上野鑑定書の判定をそのまま是認することはできない。むしろ、古田新事件鑑定書において「赤石鑑定人が腟内容を採取する以前に荻原医師が腟内容を採取した事実の有無が明らかにされない限り、被害者の腟内容から精子が証明できなかつたという結論のみによつて乙野春夫および甲野四郎のいずれの供述が姦淫の証跡と一致するかは断定しがたい」とされているところが、厳密に事実に即した鑑定結果として、首肯できるのである。

(3) 精液斑の血液型と乙野および請求人の自供証拠

前記(前第二の六)に判示のとおり、本件被害者の身体、着衣に附着の精液がA型の非分泌型として血液型物質の分泌が微量である請求人の精液であつたとしても矛盾しない。他方、右遺留精液斑が乙野のものであるとして、これが矛盾しないかどうかの点については、前記上野鑑定書(本件新規証拠第一の4の(一))および山沢鑑定書(同第一の4の(二))の各鑑定主文およびその説明に徴すると、積極に解すべきもののようである。しかしながら、この点について、古田新事件鑑定書および同再審証言によると、分泌型に属する唾液では、唾液の絶対量が0.00008ミリリットルで、別紙四の赤石鑑定書の遺留精液斑の検査成績と大差のない検査成績が得られ、他方これが非分泌型に属する唾液では、この唾液が絶対量0.01ミリリットルである、との唾液検査結果があり、右古田鑑定人において本件遺留精液斑は、分泌型に属するものとは考えがたいとされているところよりすると、右遺留精液斑は、分泌型に属する乙野春夫(鑑定人菊地哲作成の昭和四一年五月一七日付鑑定書・取寄記録二の六 八三丁)のものでない可能性が極めて高いものと考えられる。

(三) 被害者の死亡時刻の関係

(1) 被害者川村すなの死亡時刻が、後に認定の乙野昭雄が夕食仕度中の被害者を目撃した時刻と、前判示(第二の四の(一)の(4))のとおり乙野義昭が就寝(擬装)中の被害者を目撃した午後一〇時との間であることは、疑いの余地のないところであるが、これをさらに明細に認定するには、本件犯行を自供した乙野春夫および請求人の各供述を除外すると、本件では、被害者の食事時刻と右食事後死亡時までの経過時間の両者を手がかりとする以外にはない。本件新規証拠である前記上野第一鑑定書は、右食後死亡時までの経過時間の点にもかかるものである。

(2) (被害者の食事時刻)

被害者は、本件事件当日午後四時三〇分(以下本項では「午後」の表示を省略)ころ同部落に住む姪の宮崎コヨ方を出、そのころから五時までの間の時刻に里村商店で豆腐と納豆を買い、同商店前で間山哲夫と立話をした(宮崎コヨの司法警察員に対する昭和二七年二月二八日付供述調書・取寄記録二の五 八九丁、里村タカの検察官に対する同年三月二〇日付供述調書・同二の五 六〇丁、第一審の間山哲夫に対する証人尋問調書・同二の一 三四一丁)。その後、被害者の甥にあたる乙野昭雄が五時ころ夕食を父と弟の二人とともに食べ、被害者方ヘタオルを取りに行つた際には、被害者は、夕食の仕度をして、スートブに小鍋をかけて何かを煮ていた。

被害者にタオルを探してもらい、これを受け取つて帰つた時刻が五時三〇分ころであつた事実が認められる(乙野昭雄の司法警察員に対する同年二月二六日付供述調書・同記録二の三 二六丁以下)。ところで、乙野昭雄の兄にあたる乙野義昭が当日里村商店で豆腐作りを手伝つた後、五時ころ帰宅し、家の者が夕食を食べていたので一しよに食べ始め、二〇分くらいで食べ終つて、すぐ里村商店へ戻つた事実が認められる(司法警察員に対する乙野義昭の同年二月二七日付、同年三月二日付、里村タカの二月二六日付各供述調書・同記録二の五 一三〇丁、同一四二丁以下、同二の三 五一丁)から、乙野昭雄は、兄の義昭が夕食に帰宅する前に父や弟より先に夕食を終えて被害者方へ出向いたものと考えられるのであつて、その時刻も五時ころであつたこととなる。そして、乙野昭雄の居宅から被害者方までの距離は約三五〇メートル、徒歩で四、五分を要する(司法警察員作成の同年三月一〇日付実況見分調書・同記録二の四 一七丁)から、乙野昭雄が被害者方に着いた時刻は、五時五分前後であつたものと認められる。右乙野昭雄が供述する被害者の夕食の仕度具合や、被害者がその頃四時半か五時ころに夕食をとる習慣であつたこと(乙野義昭の司法警察員に対する同年二月二八日付供述調書・同記録二の三 一三丁以下)からすると、被害者は、五時三〇分ころには、夕食を終えていたものと考えられる。

(3) (食事後死亡時までの経過時間)

(Ⅰ) 別紙四の赤石鑑定書により、被害者に対する屍体解剖所見から、この点の手がかりとなる点を拾うと、(イ)、胆嚢内には、やや濃厚なる胆汁中等量あり、(ロ)、胃には水分に富める内容五〇〇立方センチメートルあり、軟い米粒、豆腐片、野菜(大根と考えられる)およびみかん片等を含んでいる。(ハ)、十二指腸にも、胃内容とほぼ同様なる内容少許あり、廻腸に至りやや緑色調を加える、の三点を挙げることができる。

(Ⅱ) 前記本件新規証拠第一の3の(一)(上野第一鑑定書)では本件被害者の食後死亡時までの経過時間を「大体食後二、三時間経過とみられるが、場合によりこれより長時間ということもあり得る。」とし、その理由として、本件では、胃および十二指腸にも食物があり、しかも相当消化しているときであることと本件被害者が老人で胃腸のはたらきがあまり活発でなかつたものとみたことなどの事情を考慮し、場合によつては食後三、四時間あるいはそれ以上ということも考えられる、ということを挙げ、また、前記古田新事件鑑定書では、「食後二、三時間ないし五、六時間と推定できるが、どちらかといえば二、三時間後くらいと推定するのが妥当」とし、その理由として、中等度の消化状態、五〇〇ミリリットルの水分に富んだ内容物、中等量の胆汁量等の諸点を挙げている。

(Ⅲ) 右の両鑑定書結果だけをみると、被害者の食後死亡時までの経過時間が少なくとも二時間以上であるように見え、現に、第二審判決および乙野に対する第一審判決の各理由中に、そのことを前提にした判断が示されている。しかしながら、食後死亡時までの時間を確定することは、現在でも困難な法医学上の盲点となつている事項の一つであり、食物の質、形態、量、その個人の性別、年令、精神的および肉体的状態、朝食か夕食か等の事情により甚しい変動を示すものであるため、個別に多くの例外がある極めて概略的な推定しかできないものである(第一審第六回公判調書中の証人赤石英の供述部分、右上野第一鑑定書)ことを考えると、右二、三時間というのも例外の余地の多い概略的時間であるにすぎないのである。のみならず、本件では、被害者は、平素米飯を茶碗に軽く二杯程度食べ、豆腐、納豆などを好み、間食は、みかん、りんごなどであり、お茶をよく飲む(乙野義昭の司法警察員に対する昭和二八年二月二八日付供述調書・取寄記録二の三 一三丁以下)というのであるから、本件当日の夕食にも食事と食後のお茶に米飯を軽く二杯(三〇〇ないし三五〇グラムとみてよいであろう)と吸もの一杯(約一五〇グラム)、お茶二杯(約一五〇グラム)程度で合計約六〇〇グラムないし六五〇グラムの飲食物を摂つたものと推測して、大きな間違いはないとおもわれる。そうすると、解剖時胃中にあつた五〇〇ミリリットルの内容物は、量の上だけからみても、食事後間もないものであることがうかがわれるのである。現に、右上野第一鑑定書では、「胃内に食物充満(水分の少ない。少なくとも五〇〇ミリリットル前後の量をいう)し、しかも不消化(口中で噛み砕いただけの状態に近いこと)のままであるときには、食後間もなく(普通三〇分以内前後)死亡したもの」とする規準(前記のとおり極めて概略的であり、個別には多くの例外のあることを認めたうえでのもの)が示され、また古田新事件鑑定書では、「健康な成人が規則的な食事をとつていれば、食後間もなくは胃内容は多量であり、固形食物は咀しやくによる以外に形態的な崩壊は認められないが、一時間くらいの後には十二指腸に達するようになる」との一般的判断で説明されているところ、前記被害者の胃および腸の各内容物の状態は、水分の多少で相異している点があるものの、おおむね右の両判断規準に該当するか、これに近いものとみて差支えないであろう。にもかかわらず右上野、古田両鑑定書において、多くの例外の場合があるとしながらも、被害者の死亡時刻を食事後二、三時間とされているのは、被害者が老人であることと、赤石鑑定人として第二審公判廷でその表現を用いて証言した「中等度の消化」(「豆腐はほとんど形がこわれており、他の物は左程甚しく消化されず、また、消化されないという状態でなく、中等程度の消化である。」)(取寄記録二の二 一〇八丁)とする被害者の食物消化状態を前提としたところにあると考えられるところ、被害者が当時五七才に達していたが、格別の病体ではなく、実際の年令よりかなり若く見え、歯にも欠損がなかつたこと(乙野の事件での第一審裁判所の証人祐川むつに対する証人尋問調書・取寄記録一の六一 一一一丁以下、別紙四の鑑定書等)に照らし、被害者を年令並の老体に扱うことは当らないうえに、歯牙の欠損のない者が摂取した豆腐にしてなお豆腐片と識別され得た解剖所見からみて、中等度の消化といえなくはないとしても、消化の程度は、かなり初期寄りのものであつたのではないか、と考えられる(なお、証人として第一、二審各公判廷で、被害者の推定死亡時刻を食後二、三時間から五、六時間とみる旨証言されている赤石鑑定人の証言内容(同記録二の二 五七四丁以下、同(控訴審)二の二 一〇八丁以下)から、その証言は、被害者の死亡時点が後にずれる可能性の限度を画する点に重点が置かれているものと認められ、この点は、捜査段階において、当初犯行時刻を一二時前後と見、その後請求人逮捕の段階でもこれを一〇時ころとしていた捜査官側の事実認識(前記第二の四の1の(二)および(三)の(3))との関係から、同鑑定人における右死亡時点が前にずれる可能性の限度を見極める観点への具体的関心は、被害者の屍体解剖時点でも、後にずれる点への関心に較べ、薄かつたのではないか、と推測される。)。

(4) 以上の検討を通じて、本件では、被害者の死亡時刻が食後二、三時間経過の時点という右赤石証言、上野、古田両鑑定書における判断が、多くの例外の場合のあることを容認した大まかな推定として、不当でないことは、当然であるが、右に判示した各事情からみて、右死亡時刻が食後二、三時間の段階よりさらに短縮された食後一時間前後の段階と認められる余地が多分にあると考える。このことは、上野鑑定人の「本件で大体食後二、三時間というのは、食物が十二指腸にも入つているからであるが、短い時間では一時間半ということも考えられる。」との証言(乙野に対する第一審第九回公判調書中同人の供述部分・取寄記録一の四 二三五丁以下)および古田鑑定人の「食後二、三時間になれば十二指腸の中にかなりの量が入つていると思う。それが少量ということになると、食後一時間というところから考えていいのではないかと思う。」との証言(同証人の再審証言・当裁判所の尋問調書二三八丁以下)によつても裏付けられるところである。

そうすると、本件では、午後五時三〇分ころ食事を終えた被害者が、食後一時間程度経過した午後六時三〇分ころ殺害されたものと考えても矛盾がなく、前判示(前第二の七)のとおり、その後犯人が共同墓地前で柴田武良らに目撃された事実関係とも照応することとなる。

3  現場の状況等と乙野春夫および請求人の各自供との関係

(一) 本件犯行時刻と各自供証拠

この点についての乙野の自供証拠は、これを要するに、「本件犯行当夜、六時三〇分から七時ころ被害者方へ様子を見に行き、一旦帰つてその後九時三〇分から一〇時ころ本件犯行に及んだ。」ことをいうとともに、「右犯行を終えて被害者方から帰る途中、共同墓地前で墓地内にいた柴田武良らの家族と会つた。」ことをもその内容としているところ、起訴直前の段階(昭和四二年二月二一日)になつて「柴田の家族と会つた時点は、被害者方へ様子見に行つての帰りのことであつたかも知れない。」と供述を変更したものである。

請求人の自供証拠では、犯行時刻は、六時三〇分前後のころから七時前後までの間の時刻となつている。そうすると、請求人の自供証拠が前記認定の被害者の死亡時刻および柴田武良らの共同墓地からの目撃時刻と矛盾しない反面、乙野の自供証拠が、右の目撃時刻と符合しないことになる。

(二) 金員盗取と各自供証拠

この点についての乙野の自供証拠はこれを要するに、「被害者を殺害して後、室内を物色して茶の間の畳の上にあつた茶色の濃い直径七、八センチメートル位の革製の古いがま口を発見し、在中の一〇円札二、三枚、五〇円玉二個、一〇円玉十数個で合計三〇〇円位を全部とつた。」「当時、手袋はしていなかつた。」旨をいうのである。

請求人の自供証拠では、金員盗取の点を終始否定している。本件犯行後、被害者方の奥八畳間の行李中から現金一万三〇〇〇円、六畳間のふとんの下から紙に包んだ現金四〇〇〇円と五円貨一枚在中のチャック付財布一個がそれぞれ発見され(司法警察員作成の昭和二七年二月二六日付実況見分調書・取寄記録二の二 三八七丁以下)、被害者方内部において、前記(第二の四の1の(一)の(4))のとおり、居間および寝室内で被害者の着衣等が散乱している状態を除いて、他に金員物色の形跡が認められず(なお川村すなの被害発見の当日指紋顕出の捜査もなされている(乙野の事件における第一審裁判所の証人太田猛に対する証人尋問調書一の二 三〇八丁))、また被害者方からの現金紛失および当時被害者の革製がま口所有の点についての確かな証拠がないうえ、当時一〇円および五〇円の補助貨幣が流通していなかつたこと(日本銀行発券局長の昭和四三年三月二八日付回答書(取寄記録二の一〇 八丁))等の事実に徴すると、請求人の自供証拠がこれらの事実と矛盾しない反面、右乙野の自供証拠が右の各事実に符合しないものとなる。

(三) 着衣はく脱と各自供証拠

この点について、請求人の自供証拠は、これを要するに、「請求人が被害者を四畳半居間から六畳の寝室に運んでふとんの上に仰向けに寝かせ、被害者が着用のモンペを脱がせるため、その紐を腹のところで両手で上に引張つたら、紐が切れた。それでモンペを引張つて脱がせたら、被害者がはいていた靴下のようなものも一しよに脱げてきたので、被害者の寝ている付近に投げておいた。」旨をいうのである。

他方、乙野の自供証拠では、「被害者が当時モンペを着用していない着物姿であり、たまたま着物のすその乱れを見て姦淫の意思が生じた。」旨をいうものであつて、モンペについて触れるところがない。前記(第二の四の1の(一)の(4))のとおりの本件被害現場の状況、とくに六畳の寝室で寝た形の被害者の頭部に近い座布団の上に、紐の切れたモンペが裏返えしになつた状態のままで放置され、その付近に靴下があつた(前掲司法警察員作成の昭和二七年二月二六日付実況見分調書、なお第一審の証人梅木良男の供述(取寄記録二の一 一九四丁以下)によると、右の靴下は、毛糸製のもので片方がモンペの脇に、片方が屍体の腰の付近にあつたことが認められる。)ことおよび被害者がきれい好きの几帳面な性格で就寝時には着衣類を整理しておく習慣であつた(第一審の証人乙野義昭、同乙野ツゲに対する各証人尋問調書・同記録二の一 二一五丁以下、二九三丁以下)ことよりすると、右モンペおよび靴下の状態は、請求人の自供証拠に符合し、乙野のそれに符合しないものといえる。

(四) その他の事項と各自供証拠

以上、乙野および請求人の各自供証拠における共通の供述事項のうちで、供述内容が相異しているものの主要な点について、認定できる事実との適合の有無をみたのであるが、このほか乙野の自供証拠には、それが請求人の自供証拠に較べ、犯行前後の情況についても格段に詳細な内容となつているため、確認できる事実との相異点が多く、そのあらましは、次のとおりである(「 」の部分が相異点である)。

(イ) 被害者の夫川村芳太郎が昭和二七年一月二四日死亡し、その後は、同人方に、「父」と弟義昭と「自分」が、「この順序で」交代で泊りに行つた。

(ロ) 本件発生当夜の同年二月二五日、「弟義昭は、夕食後、今晩隣村でトランプ大会があるので行つてくると言つて」出て行つた。

(ハ) 本件犯行前被害者方へ様子を見に行つた際、被害者が里村から買つた罐詰を食べたがうまくなかつた、と言うので、テーブルの上を見ると、箸立などと一しよに、「罐詰の丸罐のふたを切つておいてあり、中に確かさんまが半分位残つていた」。

(ニ) その後アリバイを作るため村の若い衆が集つてよくトランプをする鎌田幸一の家へ行き、「午後九時三〇分ころになつて、」そろそろやろうかと思い、「皆に、もう帰る。気が向いたらまた後で来る、と言つて出た。」

(ホ) 本件犯行の翌日弟義昭の知らせを受け、自分は、「当時在宅していた母」と父とともに被害者方へ行つた。「母が最初に被害者方へ入つた。」

(ヘ) 「父は、裸馬に乗つて、駐在所へ届けに行つた。」((イ)の関係につき第一審の証人乙野義昭、同乙野昭雄に対する各証人尋問調書・取寄記録二の一 二一四丁、二八五丁以下、乙野義昭の司法警察員に対する同二七年二月二七日付供述調書・同記録二の五 一二七丁以下、前判示第二の四の1の(一)の1、(ロ)の関係につき右司法警察員に対する乙野義昭、里村隆(同年三月三日付)、桜田純司の各供述調書・同記録調書二の五 一三〇丁以下、一一四丁以下、同記録二の三 一四四丁、(ハ)の関係につき長内の事件での第一審裁判所の証人川村芳男に対する証人尋問調書・同記録一の六 一三三丁以下、里村タカの司法警察員に対する同年二月二六日付供述調書・同記録二の三 五五丁、司法警察員作成の同年同月二六日付実況見分調書・同記録二の二 三九四丁、(ニ)の関係につき鎌田とめの司法警察員に対する同年三月三日付供述調書・同記録二の三 一七三丁、(ホ)の関係につき乙野ツゲの司法警察員に対する同年二月二八日付供述調書・同記録二の五 六九丁以下、(ヘ)の関係につき乙野石蔵の司法警察員に対する同年二月二六日付供述調書・同記録二の五 五五丁各参照)

4  乙野および請求人の各自供証拠における供述の任意性

乙野の自供証拠が作成された経緯について、前記(第二の四の2の(三)の(3))に判示したところから、その供述の任意性について疑いをさしはさむ余地はない。

他方、請求人の自供証拠については、請求人は、川村すな絞殺事件の犯行を自白した理由として、乙野の事件での第一審の裁判所の尋問に対し、証人として「犯行を自白したのは、捜査官に強要され、責められたからである。」と証言し、右強要の具体的内容について「警察で、現場の折鶴模様の手拭いが自分のものだ、と証言した者があるということ、もう一つは自分が被害者宅から出て来たのを見た者があるということ、この二つのことで責められた。自分の弁解を聞いてくれず、同じことを何度もくり返えして尋ねた。たまに大きい声を出して尋ねた。そのように責められて、やけくそ気味になり、どうでもいい。裁判で判るじやないか、という気持になつて自白した。」旨証言し、当裁判所の質問に対しても、ほぼ同様の趣旨の供述をしている。

そして、前判示の捜査経過(前記第二の四の1の(二)および(三)に徴し、捜査官が請求人に対し、現場遺留の日本手拭を手がかりとしたある程度追及的な取調べを行なつたものであることは容易に推認することができる。しかし右取調べの場が請求人のいう「強要された」というような供述の不任意性ないし、これに直ちに連らなる強い圧迫的雰囲気下になかつたことは、請求人自身、第一審の公判廷で、裁判長の供述の任意性についての質問に対し、「どこでも無理に調べられたことはない。調書は読み聞けされ、間違いなかつたもので、署名、指印した。」(取寄記録二の二 四二二丁)、「はじめは否認したが、証拠があると言われ、問われるままに「はい、はい」と返事をした。」旨供述し(同記録二の二 五八七丁以下)控訴審の公判廷でも、裁判長の質問に対し、「警察で折鶴の手拭を持出し、いくらかくしても駄目だ、見た人もいる、犯人はお前だと断定されていると言われたから自白した。」旨供述し(取寄記録二の二 一二四丁)、弁護人の質問に対しても、「事実を認めたのは、手拭を見せられて、「お前のものだ」と言われたためである。」旨供述しているのにすぎない(同記録二の二 六〇一丁、(控訴審)二の二 一二五丁)ところから考えると、任意の具体的かつ実質的程度は、乙野の自供証拠と較べると低いことは否めないけれども、請求人の自供証拠にも任意性を肯定することができる。

5  請求人の自供証拠の信憑性

(一) 請求人の自供証拠は、右のとおりいずれも任意になされたものといいうるが、前記2で検討したところから明らかなように、本件犯行の具体的行為についての供述中に、事実に符合しない絞頸方法がある(後に右供述は変更)点を筆頭に、見方によつては事実にそぐわないものと考えられる加害方法(前記大胸筋内出血の原因行為等)があるほか、犯行時刻、犯意の発生時点、犯行の細部の態様、犯行時およびその前後の被害者の具体言動、帰宅時刻等、殆んど自供の全般にわたつて供述内容が変動しているのである。そして右変動部分の殆んどのものが捜査官においで確信を得ていなかつた事項であり、しかも右供述内容には捜査官の想定の範囲を出る、犯人でなければ分らないとおもわれる事項について言及したところが極めて乏しい(請求人の取調べに当つた検事佐藤鶴松は、請求人の自白を指して、「なまわれ」と表現している(乙野の事件での第一審裁判所の同人に対する証人尋問調書・取寄記録一の三 三四八丁)のは適切な表現である。)。請求人が捜査官の問うままに、その誘導に乗つて「はい、はい」と答えていた旨弁解している点は、右供述内容に徴し、真実の一面を物語つているものと判断できる。

(二) しかしながら、請求人の自供証拠にある右の問題点にもかかわらず、請求人が右犯行につき、犯人でないのにこれを自白したものと判断できる事情は見出せないのである。すなわち、

(1) 請求人は、前判示のとおり逮捕された日の二日後である同二七年三月四日一部分を除いて犯行を自白し、その後右自白を徹回した後である同月二三日検察官から取調べを受け、「当初否認したが、その後の取調べで警察官から、「お前を見た者がいる。犯行の現場にあつた物がお前の物であると言つている者もいる、お前の妻や家族の者に聞いたが現場にあつた物がお前の物だと言つている。」と言われたので、それ程確かな証拠があればというので虚偽の自白をした。」という弁解をし、その後、この点について、第一審、第二審の各公判廷において、さらに、乙野の事件での証人尋問の際にも、当裁判所の本人質問の際にもほぼ同趣旨のことを述べている。

(2) ところで請求人が虚偽の自白をした理由にいう「犯行現場の物」は、当初捜査官が重視した折鶴模様の日本手拭で、前判示(第二の四の1の(三)の(2))のとおり、請求人を逮捕するきつかけとなつたものであるが、すでに同月一〇日の段階でこの日本手拭が請求人のものではなく、被害者のものではないか、との判断が捜査官側に生じ、しかも請求人自身捜査官に対しそれ以前から右日本手拭が自己のものでないことを明確に主張しているのであり、目撃者の点は、前判示(第二の四の1の(二))のとおり、捜査官にとつて、柴田武良らの目撃の事情が判明したのは起訴後であり、捜査段階では、請求人が事件当夜里村商店でたばこを買い、以後の足どりは不明との情報しかなく、したがつて、捜査官が否認している請求人に対し、目撃者がいる、と、いわゆる鎌をかけて言つたことがあるとしても、もとより確信をもつて追及できる状態になく、この点は、請求人の家族が現場遺留物件を請求人の物と認めた、という点についても同様である。したがつて請求人が捜査官に弁明しがたい証拠(請求人のいう「それほど確かな証拠」)を握られていると思わざるをえない取調情況とはとうてい考えられず、現に請求人の自供証拠には目撃者の点に触れた個所は皆無である。

(3) また、捜査官は、請求人が右犯行自白の当初、捜査官に対し、廊下に手をつき、号泣して謝罪したという事実を証言し(乙野の事件での第一審裁判所の証人工藤良男に対する証人尋問調書・取寄記録一の二 二〇九丁)、またこれにそうがごとき自白当初相当興奮していた旨の請求人の自供証拠(請求人の司法警察員に対する同二七年三月四日付、同月五日付供述調書・同記録二の二 四三六丁、同四五三丁)があり、後に、請求人自身この点について、単に記憶がない、と述べるだけで、これを積極的に否定しない(右乙野の事件での請求人に対する証人尋問調書・同記録一の三 二三〇丁、および当裁判所の質問に対する供述)ことよりすれば、右工藤証言にあるような請求人の挙動があつたのではないかと考えられる。

(4) さらに、請求人は、捜査官に真相を弁明することをあきらめ、公判廷でこれをしようと考えて自白した、とも言うのであるが、その後の捜査段階で否認し、公判廷では前記(第二の四の1の(五)の(4))のとおり、格別の防禦に出なかつたのである。

(5) 以上の捜査官に対する請求人の態度から、請求人は、捜査官が柴田武良らの目撃の事実等確証を得ていると判断して自己の犯行を認めたものの、捜査官の想定中の事実に合わない部分のうち、自己に不利な点だけを否定して、その余はみずから進んで供述することをせず、その後捜査官の手中に確証がないことを察知し、自白をひるがえしたものではないか、と考える(その後、請求人およびその家族が請求人に対する起訴状および第一審判決に対し、柴田武良らの証言が不当であることを理由に、控訴審で無罪の判決を期待していたのは、右起訴状および判決において犯行時刻が午後七時ころとされているのに対し、請求人が当日の午後七時前に帰宅していたことについて、請求人およびその家族が事実にもとづく確信を有していたことによるものと考えられる。すなわち、請求人の妻である甲野花枝は、「請求人が、外出して五、六分して帰宅した。」旨(同人の司法警察員に対する昭和二七年三月二日付、同月五日付供述調書・取寄記録二の三 八三丁、九一丁以下)供述しているものの、その後、「請求人が外出した時間は、自宅から里村商店までの往復に要する一五分位)と変更し(同人の検察官に対する同月二一日付供述調書・同記録二の三 九三丁以下、第一審での同人に対する証人尋問調書・同二の一 二九八丁以下)、他の家族の者は、「請求人が外出して二〇分位で帰宅した。」旨(乙野春子の司法警察員、検察官に対する各供述調書・同記録二の三 一〇七丁、一一二丁、第一審での乙野隆一に対する証人尋問調書・同二の一 三三三丁以下)各供述しているうえ、とくに、「請求人が出て行き相当長い時間の約二、三〇分位してから帰宅した。」旨(乙野隆一の司法警察員に対する供述調書・同記録二の四 二三丁以下)の供述もあり、彼比考え併せると、請求人が、外出して二、三〇分位経過した午後六時三〇分前後のころおそくとも同七時前に帰宅したことが認められるのである。)。

また、前記の請求人の公判審理における態度は、捜査段階での釈明をあきらめ、公判廷で無実を明らかにする考えであつた者の態度からは遠いものであつたと考えられるばかりでなく、さらに請求人の仮釈放後の態度(前判示第二の四の2の(二))もまた、上告をあきらめ、出所後に無実を証明することに期待をかけていた(前記請求人に対する乙野の事件での証人尋問調書および当裁判所の質問に対する請求人の供述)者の態度として首肯しがたい。

(三) すなわち、請求人の自供証拠は、その細部における問題点にもかかわらず、川村すな絞殺事件の真犯人であることを認める点においては、その信憑性を否定すべき事由を見出しがたい。

6  乙野の供述証拠の信憑性

(一) 右23に判示のとおり、乙野の自供証拠には、少なからぬ事実との不適合部分が存する。乙野の本件取調べに当つて、任意性に欠けるところがなかつたことは、前判示のとおりであるから、右不適合を生じたゆえんを検討するとともに、他方、本件発生十数年後の供述にしてなお事実に適合する個所が多いゆえんもまた同時に検討する必要がある(もつとも右不適合事項のうち、本件遺留精液斑および共同墓地内から目撃者の目撃内容にかかるものは、その証拠内容に徴し、それだけで自己が真犯人であることをいう乙野の自供証拠が架空のものであることを裏書きするものといえよう。ただ、この場では、この点からの判断とは、別の角度から、乙野の自供証拠の信憑性を吟味することとする。)。

(二)(1) 当裁判所は、乙野春夫に直接して、その人柄に触れ、供述を聴取することが出来なかつたけれども、幸い同人の供述について捜査機関および同人に対する被告事件で第一審裁判所が作成した各調書のほかに、捜査機関が録音した録音テープ全六巻が存在し、これを詳しく検討することにより、対面して直接供述を得ることにある程度近付いたところで心証を得ることができた。右乙野の自供証拠に認められる乙野の供述態度は、いんぎんにして多弁である。相手の検察官に物怖じした様子はなく、淡々と語つているとの印象を受ける。その供述自体から前判示の事実と符合しない個所についての供述の様子と、その余の個所についてのそれとの間に格別の変化を認めがたい。いずれも詳細にしてその場の光景を眼前にするかのような印象を受けるほどの鮮明さで、約十四年前の犯行およびその前後の情況についてを供述している。同人の嘘言癖があつたかどうかは別としても、右供述態度と供述内容からだけで、同人が自己の記憶に不明瞭な事項についてはもとより、記憶に反する事項についても、さしたる抵抗もなく巧み語り得る資質の者であるとみてよいであろう。乙野の自供証拠には、多くの同人の意図的な創作部が含まれているとしなければならない。

(2) これとは逆に、乙野の自供証拠中には、右の指摘の不符合個所を除外すると、他は事実と符合するか、少なくとも不符合とは断じがたい事項の多くが含まれている。この点が、どのようにして可能であつたか、をみるに、さきに判示したとおり、乙野が事件発見直後の段階で、被害者の近親者として犯行現場に出向いていること、および捜査段階のみならず公判審理に入つてからでも、部落住民の間に様々の憶測が乱れ飛び、いわゆる素人の犯人探しが行なわれていたこと(公判不提出記録・取寄記録二の三二丁以下)、のみならず、乙野は、前判示のとおり請求人が逮捕されてから後、その共犯者の嫌疑を受け、当時住居地で取調べを受けた他の参考人とは別に青森地区警察署に出頭を求められ、取調べを受けたこと、以上の各事情があり、これに徴すると、乙野は、本件について同部落の者の中でもとくに多くの事情(被害者に関するものはもとより捜査官側の事項についても)を入手し得た立場にあつた者といえる。乙野の自供証拠の内容で、この範囲をこえるものは、認められない。中でも乙野が犯行時刻を午後一〇時ころを中心として供述している点は、右乙野が取調べを受けた当時、捜査当局が見込んでいた犯行時刻と同一であり、右時刻を中心として乙野のアリバイが追及されたとみられることと関係があるとみてよいであろう。

(3) 乙野が本件のような態度に出た動機の何であつたかを確定することは、困難であるが、少なくとも、同人が当時拘禁生活中であり、右自供により直ちに実質的な苦痛を受ける立場になかつたことと無関係ではないであろう。自供を進めるに従つて、これが被害者である叔母川村すなの幻影に脅かされた余りのものであることを、さきに述べたところと同様の迫真性ある表現で供述するのであるが、その表現内容自体で信用することはできず、却つて、当初この自供を申し出た際の言葉は、かかるものではなく、全く次元内容を異にする、「無実で服役中の請求人」への同情以外の何ものでもなかつた(乙野の事件での第二審証人川村雄逸の供述・取寄記録東京高裁二冊目四六三丁)のである。このことは乙野の自供証拠の成立が同人の被拘禁状態と無関係でないことを示すものではないか、と考えられる。

(三) 以上の乙野の自供証拠の信憑性を、その内容に則して検討しても、虚構のものである疑いが濃いものであるといわなければならない。前判示の遺留精液斑の鑑定結果、共同墓地からの目撃者の供述内容と先に判示した請求人の供述の信憑性とを考え併せると、右乙野の自供証拠は、すべて無責任な虚構のものと断定することができる。したがつて、本件新規証拠である第一の2の(一)ないし(四)が明白性の要件を具備しないことは明らかである。

9 結論

1  結局、本件各新規証拠は、いずれも、刑訴法四三五条六号にいう再審請求証拠としての明白性の要件を具備しない(なお、請求人が新規証拠として掲げる起訴状(前記第一の1)は、検察官の起訴行為を立証するものとしては、最良の証拠というべきではあるが、起訴状に記載の公訴事実の関係では、これが検察官の判断を表示したものにすぎないから、公訴事実に対して何らの証拠価値を有するものではない。ただ起訴行為の存在から捜査官の嫌疑の存在を推定し、その事実的意味をもつて証拠価値となし得る余地がないではない(関係資料が存在しないような場合には、この程度の証拠価値も活用されることがあろう。)けれども、検察官の起訴判断の前提となつた証拠資料が備わつている本件においては、起訴状の右証拠価値を独立に評価する必要をみない。)ものであるのみならず、右新規証拠のうち、前記第一の4の(一)および(二)の各鑑定書ならびに同第一の5の検証調書は、本件審理の対象とした他の証拠とともに総合して判断すると、いずれも、乙野の無実であることは逆に、川村すな絞殺事件の真犯人が請求人であることを、事案の真相に即して確定する証拠であることが明らかとなつた。もとより本件各新規証拠および本件で検討した他のすべての証拠を総合して判断しても、請求人が右事件について無実であることを推測させる余地も認められなかつた。

2  請求人が川村すな絞殺事件の真犯人であることを疑うべき問題点は解消した。請求人は、右事件の当然の責任を果し、まれにみる更生の実を挙げ、善良な社会人として健全な家庭を築いたものと認められる。(それゆえにこそ、請求人は、乙野春夫が右事件の真犯人は自分であると名乗り出て、そのことが報道機関にとり上げられるや、まず「今ごろ騒いだところで、かえつて、迷惑だ。」と感じ、「騒いだところで、果して自分の無実が晴れるかどうかわからない。」と危惧した(「前掲乙野の事件および本件における請求人の供述証拠」)のであり、この請求人の立場に対しては、深い同情の念を押えがたいものがある。)

3  以上の次第によつて、本件再審請求は、理由がないから刑訴法四四七条一項により、これを棄却すべきものである。

よつて、主文のとおり決定する。

(井上清 本郷元 中条秀雄)

「別紙一」 第一審判決(青森地裁刑事部昭和二七年一二月一五日)

主文

被告人を懲役十年に処する。

未決勾留日数中二百日を右本刑に算入する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

被告人は昭和二十七年二月二十五日午後七時頃、青森県東津軽郡高田村大字小舘字桜苅百六十四番地寡婦川村すな(明治二十八年二月二十一日生)方四畳半の間で同女と対談中俄に劣情を催し、同女に対し情交を迫つたが拒否されたため強いて同女を姦淫しようと決意し、いきなり手拳を以て同女の胸部を突きそのため同女が倒れると同女を隣室六畳間の寝床まで抱きかかえて仰向けに倒したが、尚抵抗するので同女の頸部を着衣(証第七号)の襟を両手で持つて絞めたところ力余つてその場で同女を窒息死に致らせ(姦淫自体は結局所期の目的を遂げず)たものである。

右の事実は

一、鑑定人医師赤石英作の鑑定書三通、

一、司法警察員梅木良男作成の領置調書二通、(右鑑定書中昭和二十七年三月二十日附のものの物件に関し)

一、証人赤石英の昭和二十七年七月十八日の当公廷における供述、

一、川村すなに関する青森県東津軽郡高田村村長奥崎三次郎認証の除籍謄本

一、裁判所の証人柴田武良、同柴田フミ、同柴田公人、同柴田巌、同柴田洋の指示による共同墓地附近の検証並びに証人尋問調書、

一、裁判所の証人梅木良男指示による犯行現場及びその附近の検証調書

一、押収してある毛布製上張り(証第七号)

一、司法警察員の被告人に対する第四回供述調書(但し第六項を除く)

一、検察官に被告人に対する第一回供述調書(但し第五項の中二十行目以下を除く)

を綜合してこれを認める。

法律に照らすと被告人の判示所為は刑法第百八十一条に該当するので所定刑中有期懲役刑を選択し、その刑期範囲内で被告人を懲役十年に処し、同法第二十一条に従つて未決勾留日数中二百日を右本刑に算入することとし、訴訟費用は刑事訴訟法第百八十一条第一項に則り全部被告人に負担させる。

なお本件公訴事実中殺人の点については殺意を認めるに足る証拠がなく犯罪の証明がないけれども之と右判示強姦致死とは刑法第五十四条第一項前段の関係にあるものとして起訴されたものであるから特にこの点についで主文で無罪の云渡をしない。

よつて主文の通り判決する。

(畠澤喜一 清野辰雄 平川浩子)

「別紙二」 確定判決(仙台高裁第一刑事部昭和二八年八月二二日)

主文

本件控訴は之を棄却する。

当審の未決勾留日数中二百日を本刑に算入する。

当審の訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

弁護人成田篤郎の控訴趣意は、記録中の同弁護人提出の控訴趣意書及び「控訴趣意書訂正及追加申立」と題する書面の通りであるから、茲に之を引用する。

右両書面を通じての控訴趣意第二点について、

本件起訴状記載の公訴事実は「被告人は……川村すな方において……同女に対し……情交を迫りたるも拒否せらるるや矢庭に手拳を以て同女の胸部を突き同女が倒るるや之を隣りの寝床にだき抱え仰向けにしたるも抵抗に遇い、寧ろ同女を殺害するに如かずと決意し両手にて紐様のものにて同女の頸部を絞めて抵抗を仰圧し、同女の淫部に淫茎を没入して性交をとげ、以て強いて同女を姦淫して同女をして窒息死に至らしめたものである」というにあり、罪名並に罰条としては強姦致死殺人、刑法第百八十一条第百九十九条としてある。之に対して原判決の認定した事実は「被告人は……川村すな方で……同女に対し情交を迫つたが拒否されたため強いて同女を姦淫しようと決意し、いきなり手拳を以て同女の胸部を突き、そのため同女が倒れると同女を隣室六畳間の寝床まで抱きかかえて仰向けに倒したが、尚抵抗するので同女の頸部を着衣(証第七号)の襟を両手で持つて絞めたところ力余つてその場で同女を窒息死に致し(姦淫自体は結局所期の目的を遂げず)たものである。」というにありこれに対し、当然のことながら単に刑法第百八十一条を適用している。則ち、起訴状では強姦(既遂)致死と殺人との観念的競合であるとしているのに対し、判決においては、強姦(未遂)致死の単純一罪としている差異があり、かつ、殺害(又は致死)の方法に関して、論旨の指摘するような差異がある。しかしながら、本件公訴事実全体から見て、絞頸に用いた物が紐様のものであるか、被害者の着衣であるかの如き差異だけでは、被告人の防禦に実質的にさほどの影響があるとも認められず、又前記判決認定の事実及び適条は、明らかに起訴状記載の訴因及び罰条の範囲内のことで、かつ、かく認定し適条することによつて、被告人の防禦に実質上不利益を来すものとも認められないから、この場合訴因罰条の変更の手続をとることを要するものではない。論旨は理由がない。

同上第一点、(イ)乃至(ホ)について。

論旨は要するに原判決の証拠価値判断を攻撃し、事実誤認を主張するものであるが、原判決挙示の証拠に依れば原判示事実は優に之を認定することが出来るし、記録を精査しても原審の事実認定に誤があるとは認められない。

特に、論旨は(イ)、(ハ)、に於て、原判決が本件犯行時刻を午後七時頃と認定したことを攻撃し且被告人にアリバイがなりたつと主張する。ところで、原審の証人柴田武良に対する尋問調書(記録一冊、百五十七丁以下)竝同人に対する当審の証人尋問調書に依れば、同証人は家族四人を連れ本件の起きた昭和二十七年二月二十五日夕刻本件被害者川村すな方に程近い共同墓地に墓参りに赴き、其墓石の地点で、被告人が墓地入口の道路を歩行するのを家族と共に見たことは疑のない事実であつて、当時ラヂオ、NHKから放送されていた放送劇「サクランボ大将」の放送の終る頃右柴田武良等家族が夕食を始め、夕食を終えて家を出たことや墓地に着いてから菓子を食べたりなどして約四十分間も墓地に居り、被告人の姿を認めた時は同人等家族が帰り仕度をして居た頃であつたことも亦右証拠上窺い知り得るところである。そして当審で証拠調した電話聴取書竝当審の検証調書に依ると、当時右「サクランボ大将」の放送は午後五時十五分から五時三十分までであつたこと、柴田武良宅から同人が前示尋問調書で供述した通りの、其日、墓地に至る迄の同人の通つた道筋(自宅から墓地に行く途中鎌田孝一方に立寄り直に引返して墓地に至る)を同人等が歩行するに要した時間は約十分間であつたことが間違なく且同人等家族の食事に要した時間を約三十分間と見積ることも大略誤がない様に思われるから、彼是綜合して、柴田武良等は当日午後六時頃自宅を出て、六時十分頃墓地に着き、六時五十分頃迄墓地に居り、六時五十分頃被告人の姿を認めたものと認定するも差支ないと思われる。それに、当審の検証調書に依れば、右柴田が認めた時に被告人が歩いて居た地点は被害者川村すな方から大略三十二間(歩行時間一分位のものである)隔つたところであり、柴田の前示尋問調書に依ると、被告人の向つていた方向は、川村方え行くのとは反対方向であつたことが明であるから、被告人が本件犯行をしたとすれば、それを終つた時刻は午後六時五十分前後と認定することが出来るものと謂わなければならぬ。一方、原審第六回公判調書中証人赤石英の供述記載(記録二冊五百七十七丁以下)竝当公廷に於ける証人赤石英の証言を綜合すれば、被害者川村すなの死体解剖の際の胃の内容物から推定して、同人の、食後から殺害される迄の時間は二、三時間乃至五、六時間と思われる。ところが、里村タカ間山哲に対する各原審証人尋問調書(記録一冊二百三十六丁以下、三百四十二丁以下)を綜合すれば、本件の起きた当日、被害者川村すなが雑貨店里村タカ方から午後四時乃至五時頃豆腐と納豆を買つて帰つた事実が認められるのであつて、此事実と原審鑑定人赤石英作成の鑑定書中、被害者川村すなの胃の中に豆腐片があつたとの記載(記録一冊五十丁)を参照するとき、川村すなは其日の夕飯に右里村商店から買つて来た豆腐を食べたものと認められるのである。そして食事の仕度をし始めてから食事をし終える迄の時間を約三十分乃至一時間と見ることは不当ではなかろうから川村すなが食事をし終えたのは午後四時半乃至六時頃と見ても差支なかろう。そうだとすると、午後四時半乃至六時頃から二、三時間乃至五、六時間を経過した時刻は午後六時半頃乃至十二時頃となるのであつて、前段推定の死亡時刻、六時五十分頃は正に此午後六時半頃乃至十二時頃の中に含まれのである。従つて、所論原審証人赤石英の証言は、本件犯行が午後六時五十分頃であると認定することの妨げとなるものではない。又、之を午後六時五十分頃とすると、原判決の午後七時というのと十分位の差はあるが、この程度の差を以て判決に影響を及ぼすべき事実誤認とすることを得ない。

次に、被告人は論旨に日う通りのアリバイを主張し、里村セツ、乙野義昭、甲野花枝、乙野春子、乙野きえ、乙野隆一、里村隆に対する各原審証人尋問調書(記録一冊二百四十丁以下、二百十三丁以下、二百九十六丁以下、三百八丁以下、三百二十三丁以下、三百三十一丁以下、二冊五百二十四丁以下)には、其主張の一部に副う供述記載がある(被告人が当日夕刻里村商店に煙草を買いに出たと謂う如き)けれども、其部分だけでは未だ以てアリバイを認め難く、右供述記載を除く他の部分(被告人が午後六時十五分頃から自宅に居て何処えも出なかつたと謂う如き)は記録中の他の証拠に比照し信を措き難い。原判決が被告人のアリバイを認めなかつたことは正当である。

論旨(ロ)はA型の血液型とAN型の血液型とは相異るものであるというが、AN型とはABO式とMN式と二つとの方式の血液型検査をした結果ABO式ではA、MN式ではNという判定になつたものの血液型の名称でA型とは単にABO式の血液型検査を行つてAの判定となつたものの名称であるから両者は必ずしも相異るものではない又本論旨後段は昭和二十七年二月二十五日午後七時頃という死亡時刻の認定は鑑定の結果との間に相当のずれがあると主張するものの如くであるが、死体解剖所見だけで死亡の時刻を午後何時という如く正確に判定することの不可能であることは公知の事実で、原判決援用の鑑定書に死亡の時刻を解剖の時(昭和二十七年二月二十七日午後二時三十五分から午後六時四十五分)から大約二十四時間乃至四十八時間と推定することは犯行(殺害)の時刻を前記原判示の如く認定するのに少しも妨げとるなるものではない。

論旨(ホ)は原判決が証拠として挙示している被告人の司法警察員及び検察宮に対する各供述調書記載の自白の不任意性を主張しているものであるが、所論被告人の弁解は、原審第四回公判調書中被告人の「警察検察庁及び裁判官の取調を受けた際供述を強制されたり、無理な調を受けたことはなかつた。調の後で調書は読んで聞かされ、間違なかつたので署名指印した」旨の供述記載と対比して措信し難いのみならず、原審における証人尋問及び検証調書(記録第一七八丁以下)中証人梅木良男の供述記載、原審証人乙野義昭(記録第二一二丁以下)に対する尋問調書、被告人の司法警察員に対する第一回乃至第四回供述調書、裁判官の被告人に対する調書(勾留尋問調書)被告人の検察官に対する第一、二回供述調書、被告人に対する本件逮捕状等を綜合すると、警察当局が被告人に本件の嫌疑をかけたのは、本件現場に在つた日本手拭(証第十四号)が被告人の物らしいという乙野義昭の談話によつたもので、又その嫌疑の内容としては強姦殺人の外、現場で川村すな所持の財布中から現金千円位を奪取したということをも含んでいたのであるが警察当局は昭和二十七年三月一日逮捕状の発付を得翌二日朝被告人の自宅で逮捕し青森地区警察署に引致して取調べたところ、被告人は三月四日に至り、早くも強姦致死の事実を詳細自白し、翌五日にも同様の自白をしたが、金品奪取の点は否認し、なお現場に自己の所持品を遺留したことはない旨を述べ、爾来同月十七日附検察官に対する供述調書の作成された取調まで同旨の供述を持続し、その後本件犯行を全面的に否認したものであることが明かである。而して、原審証人川村芳男に対する尋問調書(記録第二〇五丁以下)によれば、同証人は被害者川村すなの長男であるが、証第一四号の手拭はすな生前から同人方に在つたものである旨を供述しており、鑑定人赤石英の昭和二十七年三月二十日附の鑑定書(記録第七十一丁以下)には証第一号の手拭――之が押収の証第一四号の手拭であることは、該手拭の現物と、右鑑定書添付写真との対照上明かである。――には血液型B型の分泌物(精液以外)を認められた旨の鑑定記載があり、一方同鑑定人の同年三月五日附の鑑定書(記録第六〇丁以下)には被告人の血液型はA型N型である旨の記載があり、更に同鑑定人の同年三月十一日附鑑定書(記録第四十五丁裏以下)には「川村すなの血液型はB型である」旨の記載があるのであつて、之等を綜合すれば、証第一四号の手拭は川村すなが使用していたものであつて、被告人のものではなかつたことが明らかで、又、記録に徴すれば、本件犯行の犯人が川村すなから金員を強奪した形跡も殆んど認められない。即ち以上を綜合すれば、被告人の前記自白は手拭の点といい、金品奪取の点といい、警察当局の見込みと相違し、しかも事実に符合しているのである。而して、もし、警察当局が被告人に自白を強制するとすれば、その見込みに従つてするものと考えるべきは当然であるから、被告人が、その見込みに違う供述をしていたことは強制がなかつたことを証する一資料と解すべきである。このような事実と被告人の自白が、本件のような重大な犯行にも拘らず逮捕後僅かに二日でなされたという事実、及び被告人の前記原審第四回公判調書中の供述と相俟つて考えれば、被告人の前記自白の任意性は十分に之を肯定し得るのであつて、論旨は理由がない。

論旨第一点、(二)、は原判決挙示の証人柴田武良、同柴田フミ、同柴田公人、同柴田巌、同柴田洋に対する各裁判官の尋問調書中の供述記載が原審第二回検証調書の記載(記録二冊、五百五十丁以下)に徴し、措信し得ざるに拘らず(通行人の面相や着衣等が容易に識別し得ないのに、識別し得た旨供述している点など)、措信し得るとして、断罪の資料に供したことは違法であると主張するのであるが、右各尋問調書と検証調書とを比較対照するに、検証の行われた日時、場所、方法、検証の結果、などに鑑み、右各尋問調書中の供述記載が検証調書の記載に比し特に信を措き難いとは認められない。又、右各尋問調書は、所論に曰う様に、司法警察吏員によつて「デツチ上ゲラレタ」調書であると認むべき資料はない。畢竟原判決が右各尋調書を証拠に挙示したことは正当である。

よつて刑事訴訟法第三百九十六条第百八十一条刑法第二十一条に則り、主文の通り判決する。

(鈴木禎次郎 高橋雄一 佐々木次雄)

「別紙三〜六」いずれも鑑定書<略>

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